轍


 故郷に帰るのは数年ぶりだった。
 あの頃よりも荒れ、乾いた空気が私たちを迎えた。二度と、来ることはないと思っていた。事実、妻にねだられなければ、訪れることはなかっただろう。
 妻は、故郷での私を知らない。知っているのは、妻の国で共に過ごした「夫」としての私だけである。
 私は故郷では軍人だった。数年前の戦争では、多くの異国人の命を奪った。国を守り、人を殺し、他国に勝つことを喜びとしていた。勝てば、この荒れ乾いた故郷を楽園に変えることができると信じていた。人に銃を向けるとき、私はその勝利の感によっていた。
 しかし戦局が悪化し始めると、私は上層部の一部に連れられ、遠国へ逃げた。
 その国は豊かだった。飢えに苦しむ人などおらず、水を捜し求める声もなかった。軍歌の代わりに笑い声が溢れ、軍旗の代わりに白い洗濯物がはためいていた。広場では子ども達が遊びまわり、噴水が日の光を反射し、きらめいていた。そこには、私たちが戦争で得ようとした全てがあったように思えた。
 初め、私は故郷を捨てて逃げることが辛かった。私の生きる場所は、あの故郷しかないと思っていた。しかし私たちは次第にその国に溶け込み、私は妻までも得た。
 私の故郷が戦争に負けたと聞いたのは、その頃だった。
 幸せな日々が続いた。私は物をつくる仕事をし、家に帰ると妻と笑顔で過ごした。喧嘩というものをしたことがなかった。この国のどこにも、ささいな争いすら見られなかった。
 妻が私に何かをねだったのは、それが初めてだったのかもしれない。そろそろ戦争の事後処理もついた頃だろうし、私の故郷に行きたいと言い出したのだ。
 妻は、私がこの国の出身でないこと、私の故郷は今や敗戦国であることは知っていたが、私が軍人だったことは知らないでいた。いや、彼女は戦争というものを知らなかったのだ。人と人とが争うということを。
 私は反対した。人に反論するのは、この国に来てから初めてだった。しかし妻は、私の両親にきちんと挨拶したいのだと、強く主張した。挨拶は大事なのだと。
 私は妻に勝てなかった。数日後、私は妻を車に乗せると、故郷へと発った。
 故郷に近づくにつれ、道がぬかるんできていた。昨夜降った雨が、路に多くの轍を刻んでいた。中には、私のよく見慣れたものも多数あった。そのほとんどが、私の故郷へとつながっていた。
 道幅が狭くなっていたので、私たちは車を降りて徒歩で向かうことにした。車を道の脇に止める。轍を刻んだままの道は、その上を歩く私たちの足跡を薄く残していった。
 妻が、私の家まで後どれくらいかを尋ねた。私の故郷は少々複雑だった。上流階級や軍部の建物は高い丘の上にあり、その周りを囲むように、ふもとの窪地に一般の人々の家があった。他国に攻められたとき、その家々が国の重要なところに敵が攻めてくるのを防いでいた。
 妻は、丘の上に見える軍部を見て、あそこまで登らなければ行けないと思ったらしい。私は苦笑しながら、この坂を降りればすぐだといった。
 私たちは、丘の前にある坂道にさしかかっていた。故郷にいた頃よりも、窪地は深く、暗く思えた。私は降りるのをためらった。妻の国に比べ、ここはあまりにも暗すぎた。
 妻は気にせず、どんどん先に降りていく。目的地の近いことが、彼女の足を軽くしたようだ。私がようやく思い足を動かすことができたのは、妻との距離がずい分と開いてからだった。
 私が一歩を踏み出したとき、妻の横に見覚えのある黒い大きな影が現れた。戦場で何度も見たことがあるそれは、戦勝国の軍用車だった。妻の脇に道がもう一本伸びており、そこから現れたらしい。私が故郷にいた頃はなかった、私の知らない道だった。車には男が二人乗っており、ひとりは運転をし、もうひとりは何かをいじっていた。どちらも、車についているのと同じマークの入った軍服を着ていた。
 私はまた立ち止まった。すぐに体を道の側に生えている木の影に隠した。いつもやっていたことだった。敵を見つけたら身を隠すこと。戦場で教え続けられたことだった。
 妻は二人組みに気がつくと、車の方に近寄っていった。挨拶をする気だなと私は思った。国にいたときと同じように。同じ笑顔で。
 妻は私がすぐ後ろにいると思っているらしく、軽く手招きをするような動作を後ろに向かってすると、車のすぐ側に立った。私は木陰に隠れたまま、妻の元へと行くことができなかった。
 妻の位置は、ちょうど、車が坂道に入るのを邪魔しているようにも見えた。妻が話しかけると、男たちは驚いた顔をして、互いに顔を見合わせた。その間も、妻の笑顔は崩れなかった。妻の国で、笑顔と挨拶は欠かすことのできないものだった。
 二人組は、妻にも私にも通じない言葉で短く話し合うと、運転をしていない方の男が、そのいじっていたものを手に構えた。軍用の銃だった。妻はそれが彼らの挨拶だとでも思っているのか、笑顔のまま彼らの動きを見ていた。
 私は木陰からとび出し、妻の元へと走り出そうとした。妻を守りたかった。しかしそんな私の思いとは逆に、わが身を守ろうとする意識が、私の足をもつれさせていた。妻との距離が、なかなか縮まらなかった。
 それは一瞬の出来事だったのだろうか。
 彼の話す言葉は私には理解できなかった。しかし、妻に銃を向けたときのその顔は、確かに昔の私のものだった。

 懐かしい音が響き、物が倒れる音がした。

 彼らは「敵」を倒した勝者の浮かべ、互いに笑い合うと、車を道に入れた。彼らは私に気づくことなく、斜面を私の故郷へと下っていった。
 すでに何重にも重ねられた轍の上に、彼らのそれが加わった。
 震える足で私が妻の元にたどり着いたとき、妻の顔は、いつもと変わらない笑顔だった。



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photo by 空に咲く花