うえへ


 男は、いつも上を見上げていた。
 初めは天井だった。まだ幼かった男に、天井は高く、遠かった。しかし成長するごとに男は天井に近づき、いつかは届くものと思っていた。ある時、男の成長は止まった。もうそれ以上、男と天井が近づくことはなかった。男は悲しんだ。けれどどうにもならなかった。
 さらに大人になった男は、天井に近づくため、大工になった。大工になった男は、いとも簡単に天井に届いた。男は幸せだった。けれどその内、男は満足できなくなった。大工になった男は、時に屋根にも登った。屋根に登った男の目に、空は遠かった。幼き火の天井と同じだった。あの空に近づきたいと思った。
 しばらくして男はとび職になった。空が少し近づいた。けれどまだ遠かった。
 その後、男は飛行機のパイロットになった。もう少しだけ、空に近づいた気がした。だが、やはり男は満足しなかった。もっと上へ、さらに遠くへ。
 男は今度は、宇宙飛行士になった。空を突き抜け、宇宙に飛び出る瞬間は快感だった。やっと空に届いたと思った。しかし男は、宇宙船の上に浮かぶ月を見て、愕然となった。上へ、上へ、遠くへ、遠くへ。
 やがて男は、月に行くことしか考えられなくなった。上へ、上へ、あの月へ。しかしそれは難しかった。
 対に男は月に到達した。達成感があった。男の心は満たされていた。その時、男は初めて下を見た。月の下には、青く丸い地球が浮いていた。男は急に目眩をおぼえて倒れた。
 男は、地上の、あの幼い日々を過ごした家で床についていた。老衰だった。これまで上へ上へと精力的に働いてきた男も、歳には勝てなかった。天井がまた、遠かった。男の横には医者しかいなかった。
「月から下を見下ろした時、初めて気づいた。月の下には地球があり、地球では多くの人が暮らしていることを。自分は今まで、上を見上げるばかりで、一度も下を見たことがなかった。それどころか、横を見たことすらなかった。自分の横には、いつも誰もいなかった。そのことにすら気づいていなかった。」
 男はそう言うと、ベッドから手を伸ばし、床に触れた。天井には届かない手も、床には簡単に届いた。男は、それを見るとゆっくりと瞳を閉じた。
 医者が、男の顔に白布をかけた。



←悪魔      ジンクス→


photo by 少年残像