最終電車


 最終電車は物寂しい。
 朝の満員電車が幻のように、空気だけを乗客として運ぶ車両もある。酒臭いサラリーマンや、ワケあり風な学生がいたりもする。
 私は、目的の駅で寝過ごさないよう、眠気と戦うサラリーマンである。この眠気というやつが、なかなか手強い。毎日この電車を利用しているのだが、三日に一度は負けてしまっている。静けさもそうだが、電車のカタコトという揺れも、いつも眠気に味方しやがる。
 私がいつもこの闘いをする終電の車両に、今日は先客がいた。まだ若い女性だ。淡いピンクのスーツを着ている。膝の上にはスーツと同系色のハンドバック。その上に、きちんとそろえた白い両手。顔はうつむいていて見えないが、どうにか見える唇は、赤く小さく美しい。
 眠っているのだろうか。これは終電だぞ。寝過ごしたら大変なんだぞ。起こした方がいいのだろうか。この車両には私と彼女しかいない。私が起こさずして誰が起こす。起こせば彼女とお近づきになれるかもしれない。
 私だって三〇代の独身男だ。若く美しい女性とお近づきになる機会があったら逃したくない。しかし、いきなり見知らぬ男に起こされたら、彼女はどう思うのだろうか。
 私が眠気を忘れてこのように思い悩んでいると、彼女の白い手を濡らすものがあった。
 涙だ。  私は瞬間的に思った。彼女は泣いている。美しい人が泣いている。これを、男として放っておけるだろうか。いや、おけない。
 私は通勤鞄からハンカチをとりだすと、彼女の横に座り、そっと声をかけた。
「あの……もしよろしければ、これ、使ってください」
 彼女ははっとしたように顔を上げた。想像以上に美しい人だった。両の目から溢れた涙が、彼女をさらに美しく見せていた。
「まあ、あたしったら……嫌だわ、こんなところをお見せして」
 彼女は私のハンカチで目を覆いながら、恥ずかしそうにうつむいた。
「あまりにも疲れていて、つい眠ってしまって……。もう平気ですので」
「ご迷惑でなければ、僕にその涙のわけを聞かせてくれませんか。何かお力になれるかも」
 いい感触だと思った私は、さらに一歩踏み込んだ。
「涙……?」
「ええ、眠りながら涙するとは、よほど胸につかえていることがあるのでしょう」
 すると彼女は、ハンカチを私につきかえしてきた。
「あなた、あたしを馬鹿にしてらっしゃるの? こんなところから涙が出るわけがないでしょう。これはヨダレよ」
 顔を上げ、そう言う彼女の、私が口だと思っていたものの中には、大きな目玉が。かわりに、声にあわせて、先ほどまで液体が流れ出ていた場所が二つ、ぱくぱくと動いていた。
 私が呆気にとられていると、彼女は、しまったという顔で、上下を赤い唇で縁取られた一つの目をいっぱいに開いて、顔の上部にある二つの口で言った。
「いけない、あたし、地球に調査に来ていたんだったわ。早く星へ帰らないと」
 そう言うと、彼女はハンドバックから銀色の紡錘形のキーホルダーを取り出した。と思うと、彼女はすぐさまそのキーホルダーに吸い込まれ、わずかに開いていた電車の窓から外へ飛び出してしまった。
 残された私は、湿ったハンカチを握りしめ、自分が降りるべき駅に着いたのにも気づかず、呆然としていた。



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photo by 空に咲く花