旅


 旅に出るのは何年ぶりだろう。
 正確な年は思い出せないが、記憶の中で旅行鞄をひきずる私の姿はまだ若い学生だ。当時私の隣には道を共にする友人がいたが、今の私の隣にはよれよれの旅行鞄が一つ、申し訳なさそうに佇んでいるのみである。
 窓の景色は先程からたいして変わらず、どこまでも白一色で覆い尽くされている。雪が降っているのだ。しかし暖房の効いた車内は暖かく、外の白さは非現実的なものに思える。寧ろ電車の中というものの方が現実から切り離されているのかもしれない。ガタゴトという車体の揺れに合わせて自分も揺れながら、そんなことをぼんやりと考えてみた。
 実際、電車というのはおかしなものである。ただそこに乗っているだけで目的の地へと連れて行ってくれるのだ。私達はただ座っているだけでいい。しかしうっかり寝過ごそうものならば、彼らは容赦なくその扉を閉ざしてしまう。駆け込み乗車をしようとする者にも同様だ。眼前でドアを閉められた経験のある人は少なくないはずだ。
 彼らのおかしな点はそれだけではない。最もおかしな点は、全くの他人同士が極普通に隣に座り、同じ空間を共有することだろう。町中の人込みと違い、大勢の人がいるにも関わらず、車内は静かなものである。誰か一人が言葉を発しようものなら、それはその場にいる全員の耳に届いてしまう。満員電車ならまだしも、夜の電車なら尚のことだ。
 ふと私の足に何かが当たった。目を落として見ると、ビールの空き缶が転がっている。前の乗客が置いていったらしい。それは私の足にぶつかった後、方向を変えて向かいに座っているサラリーマンの足をかすめた。迷惑そうな顔をしてサラリーマンは缶を蹴った。缶はまたコロコロと別の方向へと転がっていく。学生風の男の足元に到達すると、またも何処かへ蹴り飛ばされてしまった。私はもう缶の行方を追うのをやめた。きっと同じことの繰り返しだろう。ぶつかっては邪魔者扱いされるのだ。
 アナウンスが流れ、私の目的の駅名が告げられた。たいして入っていない旅行鞄を、私はさも重そうによっこいしょと持ち上げた。こういう時、私も随分とおやじになったものだと思う。昔はもっと重いものを持ってもっと遠くまで行けたというのに。自然と苦笑してしまう。どうしようもないのだ。この、時の流れというものは。どうしようもないのだ。
 降りた所はやはり真っ白だった。さすがにホームの中までは積もっていなかったが、外は見事に真っ白で、一歩足を踏み出すごとにサクッと気持ち良い音がした。まだ誰にも踏み荒らされていない、純白な雪だ。この駅で降りる人は私以外いないらしい。
 急ぐ旅でもないので、私はゆっくりと歩いた。傘をさしていない私の肩に、頭に、雪はちろちろと降ってくる。もう大分やんできたようで、粉雪になっていた。掌を上に向けてみたところ、そこに降ってきた雪は、私の体温ですぐに溶けてしまった。私の掌の上で、雪は、一瞬しか雪でいられなかった。冷たい水が、今度は逆に私の体温を奪っていった。
 人生とはそれ自体が旅である。どこかで聞いた言葉だ。なかなか哲学的な響きをもっていて、かっこいいと私は思う。しかし、私にとって旅とは楽しいものであり、また旅は楽しくなくてはならない。なのにどうだ、私の人生は。もしこれを旅というのなら、私は金輪際旅などしたくない。
 時間が時間だからだろうか。それとも天候のせいなのか。道路は全くと言っていいほど車が走っていなかった。あまりに車が通らないので、見ていて信号機の電力が勿体無く思えてきた。
 なかなか青信号にならないと思っていたら、押しボタン式信号機だった。そうと知らずに車のいない道路の交通ルールをずっと守っていた自分を馬鹿馬鹿しく感じながら、押しボタンに手を伸ばす。と、脇に何か、円柱形の物が雪で凍りついているのに気付いた。何かと思って雪を削り落としてみると、銀色をした物体が現れた。ビールの空き缶である。あの、電車の中で転がっていた物と同じ物だ。
 同じ……? 私はその言葉に違和感を覚えた。いや、違う。同じであるはずがないのだ。電車の中の空き缶と、今ここにある空き缶とは、まるきり別物なのだ。確かに傍目にはただの「ビールの空き缶」と一括りにできるが、それぞれに関わってきたものは全然違うのだ。これは例え話でしかないのだが、車内の空き缶は会社帰りのサラリーマンが仕事の不満のやり場がなくて飲み、そのまま置き去りにしてしまった物で、凍った空き缶はその辺の未成年者が大人ぶって飲んだ物を放置した物だとしよう。だとすると、その缶の送ってきた人生――缶生とでもいうのだろうか――は別物としか言い様がない。それぞれの缶にそれぞれの缶生有り、なのだ。
 私は、つい数分前まで乗っていた電車の中の風景を思い浮かべてみた。無言で隣合せに座る他人達。私は今まで彼らを全て「他人」という一まとめにしていたが、実は違うのだ。一人一人にちゃんとした人生が有り、目的地が有るのだ。人生とはそれ自体が旅である。その通り。彼らは彼らの旅をしているのだ。私のあずかり知らないところで、彼らの人生は広がっているのだ。
 そう思うと、ふと悲しくなってきた。自分がこの人生という旅の中で関われる人というのは、世界に何十億人といる中でほんの一握りなのだと。彼らから見た私もまた他人という一塊の一部に過ぎず、日常生活の背景の片隅を掠めるだけの存在なのだ。そうではない、悲しむべきことではないぞと思い直してみる。そうだ、何十億分のいくつかという確率の出会いこそ大切に、大事にするべきなのだ。袖すりあうも他生の縁、一期一会というではないか。世界は広い。だが、私が私の時間を生きて、旅をしていることになんの変わりもないのだ。そう思うと、なんだか光が見えてきた。
 私は手にしたビールの空き缶を握り直すと、近くの歩道へと投げた。何処かの誰かがあの缶と出会うようにと祈りながら……。
 私が空き缶相手に哲学をしている間、信号機はずっと赤のままで、ボタンが押されるのを待っていた。今まで何人もの人がそうしてきたように、私がボタンを押すと、なんの抵抗も無く信号機は赤から青へと変わった。やがてその青は点滅し、再び赤い光が灯るのだ。そして次にまたボタンが押されるその時まで、信号機は大人しく赤く輝き続けるのだろう。
 横断歩道を渡りながら、私は心の中で呟いた。この旅は長くなるな……と。私は旅行鞄を持ち直すと、サクリ、サクリと新雪を踏みしめながら、目的地へと歩を進めていった。
 粉雪が信号機に照らされ、薄赤く光っていた。



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photo by 少年残像