雪


 白い空から白い雪が降り続けていた。ゆっくり、ゆっくり、白い塊は白い大地へと積もり続けていった。上も、下も、右も、左も、前も、後ろも、ただひたすらに白かった。この世界には白しかなかった。
 この白い世界で、私はポケットに手を突っ込み、ぼんやりと空を見上げていた。いや、これは本当に空なのだろうか。あまりにも全てが白すぎて、もはや天地の感覚がわからなくなってきていた。もしかしたら本当の自分は空から宙吊りになっていて、地面を見下ろしているのかもしれない。そう思わせるくらい、この世界は白かった。
 何故私はこんなところにいるのだろう。
 わからない。気がついたらここに立っていた。辺りには人間はおろか、ねずみ一匹いる気配すらしない。ただ白い雪が降りつづけているばかりだ。
 私は一体どうしてしまったのだろう。何か大事なことを忘れてしまっているような気もする。しかしそれが何だかわからない。わからないことだらけだ。
 一つだけわかることがあった。それはこの雪の美しいことだ。遥か昔から多くの詩人・作家たちを魅了してきた雪……。そのなんと美しいことよ。私が立ち尽くしているのは、その雪に見とれているためでもあった。
 けれどいつまでもそうしてもいられない。ここが何であるかはわからないが、とにかく誰か人を探さなければいけない。動かなければ。
 そう思い足を動かそうとしたところ、私はぎょっとした。なんと降り積もる雪にかためられて、足が動かせなくなっていたのだ。何故気付かなかったのか。雪はいつのまにか私の膝をとっくに過ぎ、腿の半分近くまで迫っていた。心なしか、雪の降るのが速くなっている気もする。いや、気のせいではない。最初はちらちらと降っていた雪は、今やずんずんと落ち始めていた。みるみるうちに私の足を白くうめ、さらには腰、腹、胸……とどんどん上ってくる。そしてついには私の顔に冷たい雪の感触がきた。
「た……助けてくれぇ!」
 私は叫んだが、助けなどあるはずはなく、頭まで雪の中に埋もれていった。


 気がつくと、そこはあたり一面真っ白な世界だった。上も、下も、右も、左も、前も、後ろも、ただひたすらに白かった。雪は降っていなかった。空の代わりに天井が、大地の代わりに床があり、私は横たわっていた。
 何故私はこんなところにいるのだろう。
 私は確かにあの時、降りしきる雪に埋められてしまったはずだ。まさかあの状況から助かったというのか。奇跡だ。私は生きている。
 突然白い世界に白い服の女が入ってきた。女は、私を見るとこう言った。
「ああ、気がつかれましたか。良かったですね」
「私は一体……」
 どうして助かったのかと聞こうとした途端、ばんっという音と共に、今度は色のついた服を着た男が現れた。
「先生、気がつきましたか!」
 私を見るなり男は叫んだ。
 先生……? それは私のことなのか……?
 そういえば、この男にはどこか見覚えがある。誰だったろうか。先生……そうだ、この男はいつも私のことをそう呼んでいた。私は多くの人からそう呼ばれていたのだ。
「取材旅行の最中に倒れられたと聞いて……東京から飛んできたんですよ」
 取材旅行……そうだ、私は北海道まで取材旅行として雪を見に来たのだ。しかし何故私はそんなことをしたのだっけか。まだはっきりと思い出せない。雪だ、真っ白い雪がまだ私の頭の中に降り続いている。
「医者が言うにはストレスで倒れたそうですが……とにかく気がついて良かった」
 ストレス、ストレス……私はそれで倒れたのか。雪のせいではなかったのか。どうしたことか、頭が働かない。何も思い出せない。
「ところで先生」
 男は、急にあらたまった口調で言った。
「医者にはそれがストレスの原因だろうから言うなと言われてきたのですが……もう僕は我慢できませんから、言わせていただきます。先生、原稿はどうなったのですか」
 男の言葉を聞いた途端、私の頭の中の雪は、降るのを弱めた。
 原稿。この言葉で全て思い出した。私は霧島洋之。小説家だ。この男は私の担当編集者の田中。私は雪を扱った作品を書こうと北海道くんだりまできて……倒れたのだ。ぼんやりとしていた頭が、だんだん働いてきた。そうだ、ここは病院だ。白いだけの普通の病室だ。さっきの白い服の女は看護婦で、田中が現れた時のばんっという音もドアを思い切り開けただけのものだ。
 自分の記憶を整理することに手一杯で一向に返事をする様子のない私を見て、田中は再び言った。
「先生、もう一度だけ聞きますよ。原稿はどうなったのですか」
 そんなこと、私が聞きたいくらいだ。どう頑張っても、さっき思い出した分しか思い出せないのだから。
 ふと、田中が何かに気付いたような表情になって言った。
「なんだぁ、先生、もう原稿できているんじゃないですか。先生、いつも出来上がった原稿はその鞄にいれてますものね。今回もその鞄に入っているんでしょう、原稿」
 言いながら、田中は私の枕もとに置いてあった鞄に手をのばした。中から紙束を取り出し、笑顔でそれに目を通し始めた。しかしその笑顔はみるみる内に崩れていった。そしてついにはその紙束を放り出すと、田中は叫んだ。
「先生、この原稿真っ白じゃないですか!」
 この瞬間、私の頭の中の雪は完全にやんだ。
 私は前作を超える作品を書こうとして書けず、そのストレスに悩まされていたのだ。いつしか私は北海道の白い雪景色と白い原稿とにとりつかれたようになり、締め切り前夜――昨日だ――やけになって、真っ白いままの原稿をいつも完成した原稿をいれている鞄に突っ込んだのだ。そしてそのままストレスで倒れて、気がついたらこの病院にいたということだ。あの雪景色は夢だったのだ。
「酷いじゃないですか。いくら雪をテーマにした作品だからって、真っ白だなんて洒落になりませんですよ!」
 病室にひらひらと舞う私の白い原稿を見ながら思った。
 どうやらあの夢は予知夢であったらしい……と。
 白い原稿は、雪のように私に向かって降り続けていた。



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photo by 空に咲く花