奥さまの薬


 奥さまは悩んでいた。次から次に欲しい物が出てくるのだ。素敵な新作バッグを買ったかと思えば、すぐにまたそれをしのぐ素晴らしいデザインのバッグが登場し、流行のワンピースを手に入れたのも束の間、新たに生まれた流行を取り入れたスカートがお店に並ぶのだ。
 しかし、そのすべてを自分のものにすることはできなかった。旦那さまがそれを許してくれないのだ。バッグなんてこの前同じようなものを買ったばかりだろ、洋服ダンスを見てみろ、どこに新しい服を入れる隙間があるんだ。そう言って、旦那さまはいつも奥さまからお財布を取り上げていた。また旦那さまは、奥さまがまだ使えるバッグや服を捨てて、新品に買い替えることも嫌がった。世の中には中々物を手に入れられない人がいるのに、まだ綺麗な状態の物を捨てるだなんて。旦那さまはとんでもないと眉をひそめた。だから奥さまは、お買い物をするときは慎重に、自分がずっと気に入って使える物を選ぶ必要がった。本当はもっと次々色々な物が欲しいのに。
 ある時奥さまは、奥さまたちの集まりで、この悩みを漏らした。
「あら、奥さまってば、今どきそんなことで悩んで……。あの薬をご存じないの?」
「あの薬?」
「嫌だわ、ほんとに知らないのね。とっても素晴らしい薬なんだから、すぐにご購入することをお勧めするわ」
 仲良しの奥さまたちに教えられて、奥さまはその薬をすぐに買った。こんなに早く物を買うことを決断したのは久しぶりだった。
 奥さまはその薬を、言われたとおりに、まだ使えるけどデザインの古いバッグに一滴垂らしてみた。効果は翌日、すぐに現れた。奥さまがそのバッグを持ってカフェに行くと、ウェイトレスがコーヒーをひっくり返してしまい、バッグはびしょ濡れになってしまった。中身は無事だったが、バッグ自体はとてももう使える状態ではない。店員は平謝りし、お店側からいくらか謝罪のお金をもらって、奥さまはカフェを後にした。夕方仕事から帰った旦那さまは、奥さまから話を聞いて同情し、新しいバッグを買うことを約束した。
 これこそが薬の効果なのだ。この薬をつけた物は、ごく自然な成り行きで、その持ち主の元からなくなってしまう。しかも、持ち主にいくらかのお金の入る状況で。薬を垂らしたワンピースは通りすがりの紳士の飼い犬に噛まれてぼろぼろにされて、謝罪金に変わる。薬のかかった帽子は、電車で隣に座ったご婦人にどうしても譲ってほしいと頼まれて、謝礼金に化ける。そして奥さまの話を聞いた旦那さまは、お気に入りを手放さざるをえなかった奥さまのために、新たなお気に入りを買ってあげるのだ。
 こんな素晴らしい薬はない。奥さまは、もう捨ててしまいたいのに旦那さまが捨てさせてくれないものたちに、次々薬をかけていった。バッグもコートもパンプスも。全部全部、奥さまの気に入るように事は運んでいった。しかしある日、うっかり旦那さまにその現場を見られてしまった。
「お前、毛皮のコートに一体なんの液体をかけているんだ?」
「これはその、品質を長持ちさせるためのお薬よ。これをつけておくと、毛皮のつやが違うのよ」
「そうか。でもお前、この前はそれと同じものを鰐皮のバッグにもかけてなかったか。近所の子供にアイスをこぼされたバッグに」
「えと、それは……」
「シルクのスカーフにもつけていたな。メーカーが、別の繊維が混ざっている可能性があるからと回収していったスカーフにも」
「あのね、その……」
「おかしいな。お前がその液体をかけた物は、みんなどこかへ行ってしまうな。まるで魔法にでもかかったみたいだ」
「ごめんなさい、あなた!」
 奥さまはたまらず白状した。旦那さまは、黙ってその薬の話を聞いていた。奥さまは謝罪とも、薬の自慢ともつかない言い訳を長々と喋った。
「騙すようなまねをしてごめんなさい。でも私、どうしても新しい物が欲しかったの。だってだって、次々素敵なものが出てくるんだもの。欲しくてしょうがなかったのよ。それに、このお薬なら、まだ使える物を捨てるわけじゃないし、お金だっていくらか入るから、新しい物を買いやすいでしょう。そうだわ、お詫びといってはなんだけど、あなたもこのお薬、使ってみない? ほら、ゴルフバッグを買い替えたいけど、まだ使えるからもったいないって言ってたじゃない。このお薬を使えば、うまい具合に捨てるきっかけができて、しかもお金が少し戻ってくるのよ」
「ああ、そうだな。一度だけ使わせてもらうとしようか」
 旦那さまはうなずくと、無言で奥さまに薬をぶっかけた。



←現代      名猫スニッフィー→


photo by Follet