鏡 マチ子はその鏡を気に入っていた。朝起きたら、自分の身だしなみを整えるより早く鏡を磨くことを忘れないし、夜寝る前にも欠かさずのぞきこむ。時々鏡に話しかけることさえあった。 だからかもしれない。ある晩マチ子がいつもの通り鏡をのぞいていると、突然、映っていたマチ子の顔が消えて、見たこともない男の顔が現れた。辺りを見ても、マチ子の他には誰もいない。 『私は鏡の精です。マチ子さん、あなたの願いをひとつだけ叶えて差し上げましょう』 「不思議なこともあるものね。それなら、わたしをとびきりの美人にすることもできる?」 『鏡の力の及ぶ範囲でならば』 「嬉しい。ぜひお願いするわ」 鏡の中の男はうなずくとすぐ消えてしまい、今度は別の顔が現れた。これまでマチ子が見たこともないほどの美人だ。その美人は、マチ子が瞬きをすると、同じように瞬きをした。 「もしかして、これがわたし? 素敵! なんて美しいのかしら!」 マチ子は鏡に映った自分に惚れぼれとし、しばらくずっと見入っていた。やがて夜も更けてベッドに入ったが、興奮したマチ子は眠れない。ああ、明日の朝起きたら、すべてが消えてしまっていませんように。夢ではありませんように。マチ子は祈り続け、いつの間にか眠っていた。 朝。マチ子は目が覚めると、真っ先に鏡の前に立った。そこには、昨夜見たのと同じ美人が、わずかな寝癖をつけて映っていた。 「夢じゃなかったんだわ。わたし、本当に美しくなれたのね」 マチ子は上機嫌で鏡を磨くと、身だしなみを整え、出かけていった。 マチ子は人通りの多い道を選んで駅へと向かった。これだけの美人になったのだ。誰もが振り返るに違いない。マチ子はわくわくしていた。しかし、いくら歩いても誰もマチ子のことを気にとめない。案外みんな、他人のことなんて見ていないものなのね。 それならと、マチ子は混んでいる喫茶店を選んで入っていった。若い男のいる席を見つけると合席を頼み、モーニングを注文する。コーヒーを飲んでいる男を、マチ子はじっと見つめた。 「あの、僕の顔に何かついていますか」 「いえ、別に……」 やがて男は席を立ち、空いてきた喫茶店でマチ子と合席をする者はいなかった。マチ子は渋々店を出た。 それからしばらく通りを歩いても、同じだった。誰もマチ子に声をかけてこない。どころか見向きもしない。これほどの美人だというのに。マチ子はショーウィンドウの前で立ち止まると、ガラスに映った自分の姿を見てため息をついた。 「あの、すみません」 するとついに、マチ子の後ろ姿に声をかける者があった。ショーウィンドウに映る彼の姿はなかなか美形だ。マチ子は胸をときめかせて振り返った。 「はい、なにか……」 「え、あれ? ……ごめんなさい、なんでもないです」 マチ子が振り返った途端、美形は慌てた様子で通りに消えてしまった。しきりに首をひねっている。残されたマチ子も、何がなんだかわからない。 そのうち日も暮れはじめ、マチ子は家へと帰った。例の鏡の前に立つ。そこには、息をのむほどの美人が情けない顔で立っている。 「せっかく美人にしてもらったのに、なんで誰もわたしに声をかけてくれないのかしら?」 『それはそうでしょう。だって現実のあなたは何一つ変わっていないのですから』 突然、美人がいなくなり、昨夜の鏡の精が現れた。 「どういうことなの? だってあなた、自分の力で美人にしてやるって言ったじゃない」 『鏡の力の及ぶ範囲で、と申したはずです。鏡の精にできるのは、鏡の中の世界を変化させるだけ。つまり、今のあなたは鏡に映った姿だけが飛びきりの美人なのです。私の力では、現実のあなたの容姿まで変化させることができないもので』 「そういうことだったわけね。騙された気分だわ」 『申し訳ありません。うまく真意が伝わっていなかったようで』 「まったくね。ね、願いを変えちゃダメかしら?」 『どのような願いで?』 「わたしの現実の姿を変えられる、現実の精を紹介してちょうだい」 直後、鏡の精の姿は消えて、普段通りのマチ子の姿が映し出された。 ←妖精 ツボ→
photo by Simple Life
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