真夏の幻影


「……やぁ。今日は。」
 軽くこちらを振り向いたそいつは、笑顔で言った。
「……こんちわ。」
 とりあえずオレも挨拶を返す。すると、そいつは何がおかしいのか、小さくくすりと笑った。かと思うと、視線をゆっくり、元に戻した。海へと。
 ………。
 しばしの静寂。とは言ってもセミの声は絶え間なく聞こえてくるが。それと、時たま思い出したかのように響く波の音。海とはいっても海水浴場から離れたこの場所では、人の声も聞こえてこない。
 オレか、そいつが喋らない限りは。
 …………。
 しばらく待ってみたが、そいつには、もう一度こちらを振り向いて口を開くような気配はない。
 オレは失礼を承知でそいつのことを観察することにした。
 夏休みだというのに、着ている服は学生服。どこの学校のものかは知らない。この辺では見たことのない制服だ。両手は無造作にズボンのポケットに突っ込んでいる。オレに背を向ける形で海を眺めている。生暖かいとしか言いようのない風に揺れる短い髪もはためく制服の裾も、全てがごく自然で、この場にピッタシはまっている。
 しかし、いかんせん、オレは不気味な違和感を覚えてしまう。
 見慣れない制服、単に転校生なだけかも知れない。法事とかで親戚の家に来ている可能性もある。あの笑顔は天然っぽいし、海を眺めるのが趣味ですっていうのもいいだろう。
 だが、オレが今問題にしてるのは、そういったところではない。
 オレが感じた不気味な違和感――それはそいつとオレが、同じ顔をしているということ。
 正確には、オレはツリ目がちでそいつはややタレ目だ。しかし、そんな細かいところはどうでもいい。大雑把な顔のつくりはそっくりなのだ。体格も、髪質も、声の質までも、心なしか似ている気がする。
 見れば見るほどそいつとオレはそっくりで。オレは何だか気持ちが悪くなってきた。
 もしかしたら親戚かも知れない。それだったら、オレと似ているのも説明がつく。でも、オレと同い年位の親戚なんて、いたっけか……?
 ……そういえば。かなり前、テレビか何かでドッペルゲンガー≠ニいうものを見たことがあるぞ。あれは確か……そう、自分とそっくりな奴を見ると、死……っ。
「……ねぇ。」
 一瞬背筋に冷たいものが流れたオレに向かって、はかったかのようなタイミングで、そいつは声をかけてきた。
「僕、海影流っていうんだけど、君は?」
「……先ア乱。」
 自分でも、何でこんな簡単に名乗ってしまったのか分からない。なんというか……考える前に、口が動いてしまったって感じだ。
 それにしても、海影、みかげ……。どっかで聞いことあるような……。気のせいか。じゃなきゃ、ドラマかなんかで聞いたのかもしんねぇ。
「乱君、君、何でこんな所にいるの?」
 海影は、今度はオレを見もせずに言う。
「……海見に来ちゃ、悪いのかよ?」
「海を見に来るのは悪くないよ?……でも、何もこんな崖同然の所に来る必要はないんじゃない?」
 言って海影は、オレ達が立っている場所を見回した。
 海影はここを崖同然と言ったが、崖そのものだ。海水浴場から少し離れた林を抜けると、開けた台のような場所に出る。そこから下を見下ろすと、数百メートル先で、視線と海水面とがこんにちは。そんな場所がここだ。林を抜ける一歩手前には、きちんと「この先危険×立ち入り禁止」の看板が立っている。そりゃそうだ。こんな所、一歩足を踏み外せばあの世行きなんだからな。
 つまり、こんな場所に来るのは……。
「こんな所まで来るなんて、まるで別の目的があるみたいだよね。」
 にこやかに。そいつは言った。
「まさか……自殺?」
 ……図星。
 きっかけは母子ゲンカ。 その内容は、オレの進路について。
 就職したいというオレと、進学しなさいという母親。オレの家には父親がいない。数年前に病死した。家計はその生命保険金と、母さんのパートで支えている。
 今までは母子二人、なんとか食ってこれたが、今後もそうとは言いがたい。だからオレは、さっさと就職して、金を稼いで、母さんに楽をさせてやろうと思ったんだが……。
 それを、母さんはわかってくれないのだ。進路については長いこと話し合ってはきたのだが、その内容は、最初からずっと平行線。
 で、最終的にオレの口から出たのは「死んでやる!」の一言。就職して家を出なくても、要はオレがいなくなればいいのだ。オレがいなけりゃ、母さんの暮らしはもっと楽になるだろう。
 家を飛び出し、その勢いで向かったのはここ。随分昔、誰かと一緒に遊びで入りこんで、ひどく叱られた場所だ。
「ふぅん……じゃ、君、これから死ぬんだ。」
 さっきまでとはうって変わって、無表情に海影は呟く。
 オレの顔に、暑さのせいではない汗が流れた。勢いで飛び出しては来たが、いざ落ち着いてその場を見ると、じわじわと恐怖が押し寄せてくる。
「それじゃあ、これからは僕が先ア乱≠ノなるよ。」
 ――!?
 いきなりの海影の申し出に、オレは心臓が飛び出るかと思った。
「それって一体……っ。」
「だって、僕と君ってそっくりじゃん。入れ替わってもきっとバレないよ。……僕、今までの生活嫌だったんだ。君が死んだら、僕が先ア乱≠ニして生きるよ。」
 爽やかな顔で淡々と言いながら、そいつはゆっくり、オレの方へと近付いてきた。
「じゃ、バイバイ。」
 むしろ優しさを含む口調でささやくと、海影はオレに向かって手を突き出してきた。
  どんっ
 何と言っていいのかわからない衝撃。一瞬、自分の体が宙に浮いたまま止まった気がした。それも束の間。すぐに視界の上・下が逆転する。自分が真っ逆さまに落ちていっているからだということは、考えなくても分かった。こういう場合、頭の中を走馬灯のように思い出が駆け抜けるというが、そうはならなかった。悲鳴も上げなかった。
 その代わり、口から出たのは……
「――っ……先ア乱は……オレだけだ――――――――――――――――――っっ!!」
 オレの声が、海面に反響して、辺り一面に響き渡った。体は、ひどくゆっくり落ちていっている気がする。けれど、落ちている限り、いつかは底……海面にたどりつく。
 ――ぶつかる!?
 ――死ぬ!
 二種類の文字が、同時に頭の中に浮かんだ瞬間。
 海面に。あいつの影が現れた。
 ――海影流!?
 そいつは、ふっと淋しげな笑みを浮かべたかと思うと、あっという間に消えてしまった。
 数瞬後。オレの体は海面にぶつかり、意識が吹っ飛んだ――。


 ……気がつくと。
 オレは、自分の部屋のベッドに寝ていた。
 何が起こったんだ……?とりあえず、セミの声は相変わらずうるさい。
 しばらくボーッとしていると、ドアが開いて母さんが入って来た。
「あら、乱、起きたの?……まったく。日射病で倒れるなんて……あんた、いつの間にそんなに体弱くなったの?」
 喋りながら、オレの枕もとにジュースを置く。中の氷が、カランと涼しげな音をたてた。オレは、母さんの言っている意味が理解できなかった。
 オレが日射病で倒れた?
「……あんまり心配させないでよね。お父さんが死んで、あんたまでいなくなったら、私……。」
 ドキリとした。
 そうだ。オレは、母さんのために死ぬつもりだったんだ。
 なのに、オレは……。
「進路のこともね、あんたが母さんのこと、家のこと考えて就職しようとしてるのは、よくわかる。だけどね、良く考えて。あんたの人生は、あんただけのものなの。他の誰のものでもないの。だから……。」
 オレは、横になったまま、母さんの顔を見ることができなかった。
 オレは、母さんのためとか言って、逃げていただけなのかもしれない……自分のために生きることから。
「そうだ、母さんこれからちょっと出掛けてこなくちゃいけないけど、あんたはもうしばらく寝てなさい。また倒れたら大変だからね。」
「出掛けるって……どこへ?」
「母さんの兄さんちよ。息子さんが事故で亡くなったんですって。」
「……伯父さんの息子?」
 母さんの兄さん――伯父さんは、たしか結婚してなかったはずだよな……?
 オレが思わず不審な顔を母さんに向けると、母さんは、やっぱりねという顔でこたえた。
「覚えてないわよね……。母さんの兄さんはね、あんたがまだ小さい頃、1回結婚してるのよ。でも、かなり昔に離婚しちゃってね……。流君って一人息子がいたんだけど、その子は母親がひきとることになってね。覚えてるわけ、ないわよね……。何せ、小さい頃に一度会ったきりだもんね。あんた、あの時流君連れて崖なんかに遊びに行って、兄さんにひどく怒られたのよ。」
 ――あ。
「懐かしいわぁ。あの時は、どんなに心配したことか……。だって、二人そろって消えたんですもの。まさか崖に行ってたなんて……。本当、驚いたわ。無事に戻ってきたときは、どんだけ安心したことか……。でも……そんなことも、もう無いのね。あんたは大きくなったし、これからも成長していく。流君は……もう会えないのね。いい子だったのに……。」
 そこまで言うと、母さんは、うつむいたままドアノブに手をかけた。
「……ちゃんと寝てるのよ!?」
「……はい。」
 母さんが部屋を出て行った後、オレはぼんやり、空を見上げていた。
 オレを生命の危機にさらした犯人は、どうやらオレの従兄弟殿らしい。……いや、だったらしい。
 それにしても、あいつは何がしたかったのだろう。
 ――あんたの人生は、あんただけのものなの。他の誰のものでもないの。だから……。
 母さんが言っていた言葉を思い出し、オレははっとなった。
 ……もしかして、あいつ………。
 けれど、まだひっかかることがあった。
 ――僕、今までの生活嫌だったんだ。
 あいつは一体、どんな人生を歩んでいたのだろう。生きている時と死んでから……合計二回しか会えなかったオレの従兄弟。オレはあいつのことを、全然知らない。もう一度会うことも叶わない。永遠に時が止まってしまった従兄弟。
 オレが母さんと仲直りし、このまま生き続けることは、最後まであいつの思い通りになるということ。けれど……。もうしばらくは、あいつにのせられたまま生きてみっか。バイバイ、海影流。オレは生きるぜ。この世でたった一人の先ア乱≠ニして――。



←ダイアリー      つきうさぎ→


photo by 10minutes+