線


 僕の腕には、線がある。
 正確には、僕の腕の、左の手首に線がある。それはペンで書いたわけでも、皺でも傷跡でもなく、ましてや、貼り付けた偽物でもない。まるで動物の毛の模様のように、僕の腕には、一筋の線がある。
 切り取り線のように、その線は、くっきりと存在していた。線に沿って刃を突き立てれば、きれいにぱっくりと、裂けてくれるような気がした。  僕の母は僕に対して、怒るか、謝るか、そのどちらかしか、したことがなかった。怒る時は、僕の物事のできなさを罵り、謝る時は、僕をそのように生み育ててしまったことを嘆いた。
 僕はそのたび、母に対して申し訳ない気持ちになる。こんな人間であることを。そして同時に、母が哀れになる。こんな息子を持ったことを。
 そしてそんな時、左腕の線は、決まって濃く、はっきりとしたものになる。さあ、ここに刃を刺しなさい、とばかりに。
 父のことは、よく知らない。ある時ふらりといなくなってしまった。それ以前のことも、いつもやたらと機嫌の悪い人だ、ということしか覚えていない。父は、物事を曲解するのが得意な人だった。他人の言うことが理解できないと、自分が馬鹿にされていると思い、喚き散らす。そんな、被害妄想の激しい人だった。
 父がいなくなってからの母とふたりきりの生活は、単調に続いた。母との間に何かあった時には線が濃くなり、何もない時には線は薄く、ぼんやりとした形をとっていた。ただ、それでも消えることだけはなかった。
 線を眺めることは、僕の日課になっていた。ふとした瞬間、左腕に目をやる。そして、そこに確かに線があることを確認する。そうすると、僕は安心する。この線に沿って刃を滑らせるだけで、僕はいつでも、安らかな世界にいけるのだから。
 やがて僕は、彼女に出会った。
 彼女はよく笑い、よく怒り、好きなものは好きといい嫌いなものは嫌いといった。自分のやりたいことはとことんやり、たとえうまくいかないことがあっても、めげることなく取り組んでいた。何より彼女は、彼女の家族を尊敬していた。
 僕は、彼女のことが理解できなかった。何故そんなに笑えるのか。何故そんなに怒れるのか。何故そんなに一生懸命なのか。僕にはわからなかった。そして、彼女と一緒にいることを望んでいる自分も。
 僕はいつしか、彼女と共に多くの時間を過ごすようになっていた。
彼女はよく話す。僕が考えもしなかったことを話す。僕が気にも留めなかったことを話す。僕の知らないことを話す。僕以外の人のことを話す。家族のことを話す。僕と見たもののことを話す。僕のことを話す。
 彼女と出会ってから、僕はいつしか、線を見ることを忘れるようになっていた。
 しかし、彼女としばらく会えなかった時、僕は久しぶりに、左腕に視線を走らせた。そこに、まだ線はあった。だが、それはかつてないほど薄くなっていた。
 僕は恐怖した。この線だけが、僕の支えだったのだ。これがあれば、ここをなぞれば、僕はいつでもこの世界から抜け出すことができるはずなのだ。線が消えれば、その抜け道もなくなる。僕は恐怖した。
 数日、僕はまた線を眺めて過ごした。見るたびに、線はその濃さをましていき、以前と同じようにそこにあった。僕は安堵した。
 やがて、また彼女と過ごせる日々がやってきた。僕は気づいていた。彼女と共にいる時、線を見ている時とは違う安らぎを感じている自分に。
 彼女と一緒にいながらも、僕は時々線を確認する。それは、日増しに薄くなっていく。反対に彼女といる時間が長くなっていく。
 彼女は、僕の隣で笑っている。時々、拗ねてみせたりもする。僕は今度、彼女の家族に会いに行く。
 線が、どんどんその色を失っていく。僕の肌の色に溶けていく。線が消えるのは怖い。だが、彼女と離れることは、もっと怖い。
 ああ、線が消えていく……。



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