キスキッス


 俺はスパイ。ある特殊能力を駆使し、その活動をしている。
 その能力に気づいたのは小学生のころ。昼寝をしていた俺に、何を思ったのか飼い猫がキスをしてきた時だ。ファーストキスが猫だなんてあんまりだ……そう思ったのも束の間。体の中からこれまでにない力が溢れてくるのを感じた。俺は飛び起き駆けた。その勢いで庭の木に駆け登る。重力なんてなんのそのだ。てっぺんまで登った俺は、今度は地面に向かってダイブした。小学生の俺の背丈の何倍もある木だった。そんなところから飛び降りれば、よくて骨折、下手すりゃ死んでいただろう。しかし俺は無傷だった。本能のまま体を宙でひねらせると、しなやかに両手両足で地面に着地したのだ。まるで猫のように。
 そう。猫のように俊敏で柔軟な身体能力。これこそが俺の特技……ではない。俺の真の特殊能力とは、他者の特技特色を自分のものにする力だ。対象とキスをすることによって。このことに気づいた俺は、スパイになった。スパイこそが、俺のこの特殊能力をもっとも生かせる職業だと思ったからだ。
 どこかに忍び込む必要があるときは猫とキスをして、音もなくしなやかに任務を遂行する。探し物があるときは犬とキスをして嗅覚を強化だ。急いで逃げねばならぬときには馬とキスしたこともあった。鳥とキスをすれば飛べるかとも思ったが、さすがにそれは体の構造上無理らしい。代わりに美しい声を手に入れ、アナウンサーになりすまして潜入捜査をすることができた。
 キスをしてからどれくらいの間その動物の力を使えるのかはわからないが、次の動物とキスをすると、体の奥から強い力がこみ上げてきて新しい能力が身につき、前の動物の力は消えてしまうのだ。俺は必要に合わせ様々な動物たちとキスをして、その能力を使わせてもらってきた。
 しかし身近にいながら、一度もキスをしたことがない動物がいる。人間だ。人間とキスをするとどうなるのか。何度も考えたことがあった。どんな能力が身につくのか。いや、俺も人間なのだから、結局なんの力も目覚めないのではないか。どころか、この俺の特殊能力が消えてしまったらどうしよう。それとも単に、その人間の特技や性格が俺のものになるのだろうか。わからない。わからないなら、無理に試してみる必要はないだろう。動物と違い、人間とキスすることはそう簡単なことではないのだし。
 そう結論付けていた俺だったが、ここ最近、人間とキスをする必要性を感じていた。好きな女ができたのだ。彼女のことは仕事の関係で知った。とても素直な女性だ。俺の任務は彼女に近づき信頼させ、その父親の研究を盗むことだった。最初は彼女のことを、騙しやすくて助かるとしか思っていなかった。しかし、一緒にいるにつれ、素直で優しい彼女に魅かれていった。彼女のほうも、紳士的な俺を憎からず思っているらしい。俺のほうは仕事のための演技なのだが。
 ある時、俺は彼女を人気のない湖畔に呼び出した。いい加減仕事を終わらせろと上から圧力をかけられたのだ。俺は力ずくでも研究の成果を聞き出すつもりでいた。しかし、そうとは知らず、俺を信頼しきった瞳で見つめる彼女に、もう耐えられなかった。俺は隣を歩く彼女を引き寄せ抱きしめると、たまらずキスをした。途端、心の奥底から、何か温かいものが広がっていく気がした。俺の仮説の一つは当たっていたのだろう。彼女の優しく素直な性格が、俺の中に生まれたのだ。悪くない気持ちだった。
 俺はうっとりしながら、彼女を見つめた。彼女もまた、うっとりと俺のことを見つめている。今なら俺は、どんなことにでも、優しく素直な気持ちで本音を語ることができそうだ。彼女が甘い声で言った。
「夢みたいだわ。あなたと偶然知り合えて、今二人でこうしている。運命の神様に感謝してもしきれないくらいだわ」
「偶然じゃないさ。俺と君が出会えたのは、それが俺のスパイ活動に必要であったからで、感謝するなら神様なんかじゃなくてうちのボスにしないと」



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