記憶


 私には、とても嫌な記憶がある。思い出すのも不愉快なので、それがどんな記憶であるかはいわないが。
 しかし、嫌な記憶であればあるほど、頭に強くこびりついてとれないものらしい。忘れようにも忘れられない。
 記憶喪失にいっそなればいいと思うが、そういうわけにもいかない。現在のところ、私は自分の人生にはおおむね満足している。すべての記憶をなくし、今の生活を失う気にはなれない。捨てたいのは、例の記憶ただひとつだ。
 そこで私は、催眠術に頼ることにした。前に、テレビで、失った記憶を催眠術で取り返した男の話をみた。あれが可能ならば、逆もまた可能のはずだ。この忌々しい記憶をどうにか消してもらおう。
 せっせと催眠術師の元に通うこと数年、一向に効果はあらわれない。気にかけるあまり、例の記憶はむしろ鮮明になっていく。
 大抵の催眠術師のところへは行き尽くした。やはり人間、最後に頼れるのは自分しかいない。私は専門書を買い漁り、自分で催眠術をかけることにした。
 といっても、すぐに自分にかけはしない。まずは他人で実験だ。
 友人宅に遊びに行ったとき、何気なく尋ねてみる。
「君、どうしても忘れたい記憶って、あるかい」
「なんのことだ。俺にはそんなもの、ないぞ。誰だ、誰に聞いたのだ」
「そう興奮するな。今、催眠術にこっていてね。嫌な記憶だけを消せる催眠術≠ニいうものを習ったのだが、試せる人がいなくてね。ひょっとしたら、君が協力してくれるのではないかと思っただけだ」
「……内容は訊いてくれるなよ」
 誰しも、忘れたい記憶というものはあるようだ。
 早速私は友人に催眠術をかけた。
「――これでいい。例の記憶はすっかり消えたはずだ」
「例の記憶? なんの話だ。それより、悪いがこれから出かける用事があってね」
「ああ、それではそろそろおいとましよう」
 成功のようだ。例の記憶に関することをすっかり忘れている。
 これで調子にのった私は、催眠術師として開業することにした。自分の記憶も、今の仕事もどうでもいい。私の催眠術の力は本物なのだ。
 開店当日、事前にちらしも何も配っていないにも関わらず、客は来た。表の看板に目をとめて入ってくるらしい。忘れてしまいたい記憶の持ち主は多いようだ。
 友人で試したのと同じように、私は客に催眠術をかける。
「――さあ、これであなたの頭から、例の記憶はきれいさっぱり消えました。つきましては、お代の方ですが……」
「なんのことだ?」
 請求書を見せた私に、客は首をかしげてみせる。
「そもそも、何故俺はここにいるのだ。どうも記憶にない。悪いが、失礼させてもらう。これからデートなもんでね」
 呆気にとられている私をおいて、最初の客は行ってしまった。次の客も、その次の客も同様。みな、催眠術をかけられた後、記憶にないと、金も払わず出て行ってしまう。
 さてはこの催眠術、例の記憶を消してしまうと同時に、それに関連する記憶も消してしまうのだろう。つまり、例の記憶を消すための催眠術≠ニいう記憶も……。



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photo by 空に咲く花