解放 男は、死の床に伏していた。 齢九十。周囲を息子や孫らに囲まれ、なかなか立派な大往生といえるだろう。 最早見えてはいない目をうっすらと開き、男は、自分の人生を思い返していた。死ぬ時は、それまでの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡るというが、今がまさにそれだ。 思えば、大変な人生であったなあ。山あり谷あり、波乱万丈。今となっては懐かしくも思えるが、当時はいっそ死にたいとすら思った出来事もあった。 そういえば、実際、死にそうになったことも何度かあったな。乗っていた船が沈んだり、大地震にみまわれたり、仕事場に電車が突っ込んできたり……。しかし、いつも危ういところで命は助かっていた。 そのたびに、自分はなんと運の悪い人間だろうと思ったが、よくよく考えてみれば、そんな目にあってもこの歳まで生きてこられたのだ。むしろ、強運の持ち主だったのかもしれない。 この九十年、決して楽ばかりではなかったが、死の間際に思い出せる出来事が多いというのは、幸せなことだろう。平凡で何もない人生というのは、平和ではあるかもしれないが、退屈で、味気ないものだ。 周りには、息子や孫どころか、ひ孫までいる。みな、自分の死にゆくことを悼んでくれている。思い出せる思い出があって、思い出してもらえる思い出を残せて。ああ、なんと幸せな人生だったのだろう。 男は、そっと目を閉じた。心残りなど、なかった。とても安らかな気持ちだった。 「やあ、お帰り」 そんな男の気持ちを台無しにするような、のんきな声が聞こえた。 誰だ、人が死に際して、おごそかな気分になっているというのに。 男は、気分を害され、にらむように目を開けた。 すると、どうしたことか。よぼよぼになり、物を見ることなどできなかったはずの目が、しっかりと周りの景色を映しているではないか。 男は、さっきの声の主だろう、目の前でにこにこしている男を見ながら、呆気にとられていた。辺りには、さっきまでいたはずの孫達の姿は見えない。 一体どうしたことか。まさか、ここが噂に聞く天国かと首をひねっていると、目の前の男が、笑顔を崩さずに口を開いた。 「いやに長い刑期だったね。あっちの時間で九十年、よくぞまあ、過ごせたものだと思うよ。お上も、よくまあ、こんな酷い刑を考えたものだよね。罪を犯した者に睡眠剤を注入し、その精神を、お上が創りあげた世界へ飛ばす。しかもそこは、不浄な空気、不安定な気候、荒れた社会だというじゃないか。ああ、よくまあ、そんなごみごみした世界で、九十年も過ごせたものだね。何を呆けた顔をしているんだい。そういえば、あっちの世界に飛ばされた連中は、あまりのつらさに、こちらの記憶を忘れてしまうとかいうな。君もその口かい。まあ、いいや。今日は君の出所祝いだ。大いに楽しくやろうじゃないか……」 ←記憶 宣伝活動→
photo by 塵抹
|