ヒ


 夢のことであった。
 自分は、どことも知れない建物の、狭い部屋にいる。部屋に、他に人はいない。
 自分の手には、一振りのマッチが握られている。自分がすっとマッチを擦ると、炎が赤々と燃え上がった。赤く包まれたマッチを頭上へ持っていき、緑色の帽子に触れさせる。たちまち、自分の帽子も赤い光をあげはじめた。
 自分は、まだ緑のままの部分を手でつまむと、ひょいと頭からはずし、壁に押し付けた。壁は、なかなか赤を受け入れなかった。押し付けても、押し付けても、壁には黒い焦げ跡がつくだけで、一向に赤い色を見せない。自分はあせった。
 部屋の外で、人の声がした気がした。やっと、壁は赤を受け入れた。それまでが嘘のように、赤はどんどん壁に広がっていった。音もなく、静かに広がっていった。
 自分は、扉を開けて部屋を出た。そこは、もう建物の外だった。道を行く人々は、まだ炎に気づいていない。自分は何食わぬ顔をして人波に混ざった。
 路地の右に行けば上り坂で、その先には小さな山があった。一面緑色だった。山の麓に、赤い鳥居が見えた。左に行けば、逆に下り坂になり、先は見えなかった。自分は迷わず左を選んだ。ついさっき赤い色をまいてきた自分である。神社に行く気にはならなかった。
 しばらく、道は続いていった。どこに着くともわからない。人影もまばらになってきた。自分は、ふと、とんでもなく悪いことをした気分に襲われた。あの建物にいた人々はどうなったのだろう。その隣家の住人は。往来にいた人は。自分が、どうしようもなく悪いものに思われた。
 急に、さっきの神社に行きたくなった。
 しかし、道は大分来てしまった。今更戻ることもできない。戻ったところで、大変な騒ぎになっているだろう。
 気がつくと、道は下り坂から平坦なものになっていた。自分は分かれ道にさしかかった。不思議なことに、右に行く道の先に、赤い鳥居が見える。これは都合が良いと、自分は右の道へ行った。今度は、上り坂だった。
 自分は、はやる気持ちで鳥居を目指した。しかしどうしたことか。一向に鳥居に着く気配がない。後ろを振り向いてみる。もう、ずい分歩いていた。しかし赤い柱はまだ遠い。自分は立ち止まり、首をひねった。
 そのとき、後ろから、自分を追い越す者があった。袈裟をまとった修行僧である。僧は、自分の右を抜け、どんどん上っていった。やがて鳥居の前で止まり、その下の賽銭箱に銭を投げ入れた。ちゃりんという音がし、僧は両手を合わせて祈った。坊主が神社にお参りするとは妙なものだと思った。
 が、坊主の行動は、鳥居が近いことを教えてくれたため、自分は元気を取り戻した。また、上に向かって歩き始めた。
 しかし、着かない。
 またも立ち止まった自分を、またも追い越す者があった。今度は、老人の集団である。老人どもは、自分の右を過ぎるとよろよろと坂を上りきり、坊主と同じように、賽銭箱に銭を投げ入れた。ちゃりん、ちゃりんと、賽銭箱の中で高い音が幾度もした。老人どもは、みな真剣な面持ちで両手を合わせている。
 自分は呆然としていた。自分のような悪人には、神に祈ることすら許されぬらしい。いや、これはおかしい。悪人こそ、自分の行いを悔い改め、祈ることが必要なはずである。それを許さぬとはどういうことだ。悪人には、救われる権利はないということなのか。いやはや、なんとまあ、ひどい話だ。善人どもが長い坂道を、息を切らしながら上りきり、手を合わせて幸福に浸っているのが見えるというのに、自分にはそれが許されぬとは。
 すると、自分と同じように、立ち尽くしている者があった。自分の左に立ち、涙を流している。全身毛むくじゃらであった。到底、人とは思えない。顔面部の長い毛は、涙で重く濡れていた。やがて、それは上体を折り、頭を地面にこすりつけ、喚いた。
 俺は雪男である。人は、俺を見ると、恐怖におののく。泣き叫び、逃げ惑う。中には、武器を向ける者もある。だがしかし、俺は、いまだかつて、人に危害を加えたことはない。盗みをしたこともない。なのに、人は自分を恐れ、嫌う。この上は、神仏にすがり、俺を救ってもらおうと思った。なのに、神仏は、俺に祈ることすら許してくれない。近づくことすら許してくれない。これが、人を恐怖に陥れた報いなのか。
 雪男は、地に響くような声で喚き続けた。自分は、雪男が哀れでならなかった。そして、自分が情けなかった。
 自分は、自分の意志で悪事を働いた。この雪男は、勝手に悪者にされてしまった。それが、同じ悪として、鳥居に近づくことを許されないのである。おかしな話である。真に救われるべきは、このような雪男である。いわれなき迫害に耐え、涙に全身を濡らす雪男である。神仏は間違っている。
 雪男はひとしきり泣き終わったのか、顔を上げた。手に何かを握っている。目は、真っ直ぐ鳥居の下を見ていた。
 俺の体は穢れきっていて、神聖な場所には入れてすらもらえない。しかし、離れてでも祈ることは許してもらいたい。
 こう叫ぶと、雪男は、握っていた何かを、賽銭箱めがけて思い切り投げつけた。放たれた銭が、きらきらと光って見えた。
 到底、届く距離とは思えない。だが、銭は、ゆったりと、賽銭箱めがけて飛んでいく。自分は、銭のまぶしさに、思わず目を細めた。
 ちゃりんと、ひときわ高い音がした。



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photo by 空に咲く花