ふらり


 この間、僕はちょっとばかし考えさせられる体験をしたんだ。といっても、そんなに大ごとじゃあないよ。ただ、ちょっとばかし考えてしまうんだよ。どうにも、ね。
 僕が電車に乗っていたときのことだよ。電車に乗ること自体は珍しいことじゃあない。なにせ、僕は学校やなんかに行くのに、大抵は電車を使わなけりゃいけないんだからね。その日も、学校に行くために朝から電車に乗っていたんだよ。朝早くからね。僕が乗る電車はいつも混んでいてさ。よくみんなあんな満員電車に乗る気になるよね。ひどいときなんて、駅員が乗客を押し込んでドアをしめるんだよ。中にいる奴らも、本当にぎゅうぎゅうって音がするんじゃないかと思うくらい詰め込まれるのさ。たまらないよね、あれは。
 けれどその日は、連休明けでさ。有休やなんかをとる奴が多かったんだろうな。妙にすいていてさ。がらがらとまではいかないけれどね。ともかく、立っていて体が隣の他人に密着するなんてことはなかったんだよ。気分良かったね。
 で、僕はそんな電車で、座席の前に立っていたんだよ。ドア付近じゃなくてね。あれはいけないよ、ドア付近。なにせね、僕は毎日のように満員電車に乗っていたんだよ。最初の頃はね、僕もドア付近の方がすぐに降りられていいと思ったんだよ。しかしだね、さっきもいったけどさ、ひどいときには駅員が乗客を押し込むんだよ。ドアの前なんかに立っていたらさ、そりゃあもう思いっきり押し込められるのさ。たまったもんじゃないよ、あれは。ドア付近なんてごめんだね、僕は。
 そんなわけで、僕は電車に乗るときは必ず座席の前に立つ。この方が、席が空いた場合すぐに座れるしね。合理的だろう。僕はね、こういうとき、ちょいとばかし自分は頭がいい人間なんじゃないかって思えるんだ。ちょいとばかしね。
 前の座席にはね、若い女の人が座っていたんだ。こう、ぱりっとした綺麗な色のスーツを着てさ。ひざの上に高そうなバックを乗っけてさ。僕には、バックやなんかの価値はわからないけどね。で、朝だから、やっぱり眠そうに瞼を閉じてるんだよね。うとうと、うとうとって。体も少し揺らしながらさ。時々目を開けて、今いる駅を確認したりしてね。彼女が目を開けるたび、僕は、彼女がもう降りるのかと期待したね。なにせ、僕の電車に乗る時間は長いんだ。座れるものなら座りたいじゃないか。しかも、その日はせっかく空いていたんだよ。でもだめだね。彼女は目を開けて駅名を確認すると、すぐにまた眠っちまいやがんだ。で、僕はまた立ちぼうけ。そんなことが何回もあった。
 けどその内、ついに彼女が立ち上がった。眠そうな顔をしているわりには、ずい分素早かったな。目を開けて駅名をさっと見たかと思うと、こう、ぱっと立って行ってしまったんだもの。会社じゃ、できる女ってやつなのかもな。電車の中だけ、その緊張がほぐれてうとうと。そう思うと、僕はちょっと彼女に同情したね。
 さて、やっと席が空いたわけだから、僕としては座りたいよな。当然だろう。だって、僕はそれから先の駅までまだずっと電車に乗っていなくちゃいけないんだよ。そりゃあ座りたくもなるよ。けどね、座ろうと、僕がちょっと体を動かしたときにさ、目があっちゃったんだよね、隣に立ってた人とさ。それが初老の婦人でね。なんていうのかな。僕は女物の服はよくわからないんだけど、すごく小奇麗な服を着ててさ。髪やなんかもきちんとしてて、なんていうか、マダムってかんじだったな。うまい表現じゃないかもしれないけど。
 とにかく、そんな人と目が合っちゃってさ。そしたらさ、無意識にね、僕は体の位置を変えていたわけだよ。その、マダムにさ、座ってどうぞ、っていうようにね。空いたのは、僕の目の前の席なんだけどね。僕は座りませんよ、ご婦人、どうぞ座ってくださいって風にね。そしたらマダム、ありがとうって微笑んでね、優雅に座ったわけだよ、その席に。
 座っても、姿勢がいいんだな、これが。こう、ぴしっとしててさ。けどね、やっぱり朝だからね、瞼は下がってくるんだよ。無理はいけません、大人しく眠っちゃいなさいってね。さっきの女の人みたいにね、うとうと、ゆらゆら。と、僕はそう思ったんだけどね、違ったんだな、これが。確かに目は閉じてるんだけどさ、ぴったりね。僕なんかは、居眠りをすると薄目になってるらしいんだけどさ。もちろん、自分じゃわからないけどね。人がいうことにはだよ。眠ってても、こう、ちょっと白目の部分が見えるらしいんだよね。そのせいかな、起きたとき、よく目が乾いてるんだよね。
 まあ、僕のことはいいんだよ、そのマダムがさ、もう、ぴったりと目を瞑ってるんだよね。けど、思い切り、ぎゅっと、ってわけじゃない。そうっと、自然に瞑ってるんだよね。場所は電車の中だよ。そこで寝ていることに変わりはないよ。でもね、なんだかとっても上品なんだ。僕はもう、びっくりしちゃってさ。だって、僕はそのマダムの正面に立っていたわけだからね。どうしたって目に入っちゃうわけなんだよ。びっくりというか、どきどきに近いかな。すごく綺麗な人だったんだ。顔のつくりがじゃないよ。僕は、人にいわせれば変わっていてね、女の顔のことなんて、何一つわかってやしないんだから。でも、そのとき、僕は本当にそのマダムを綺麗だと思ったんだ。
 その内、僕が降りる駅が近づいてきてね、僕は降りる準備をしたんだよ。といっても、単に座席の上の荷物棚から、教科書やらノートやら、とにかく詰め込んだカバンを下ろすだけなんだけどね。けど、それが一苦労さ。だって僕は、なんでもかんでもそこに詰め込んでいたからね、毎日必要なものを入れ替えるのが嫌なのさ、僕は。どうせいつかは入れるんだから、なら、最初から出さなければ、忘れることもないじゃあないか。こんなときも、僕はちょいとばかし、合理的で頭がいいかもな、なんて思ってみたりするんだけどね。
 で、僕が荷物を下ろしてからだよ、僕自身も電車から降りようとしたらね、てっきり寝ていると思っていたマダムが目を開けたんだよ。すうっとね。それで、僕の目をまっすぐ見て言うんだよ。ありがとうございました、って。僕はどぎまぎしたよ。だって、ただ席に座らせてあげただけなんだよ。しかも、元々僕が座っていたわけじゃあないのにさ。僕はもうただどぎまぎしてね、ちょいと頭を下げるだけで、急いで電車を降りちまったのさ。
 降りてからもね、なんだか落ち着かなかったんだよ。一目惚れとか、そんな下世話な感情じゃあやしないよ。だって、恥ずかしい話だけどね、僕は以前、その一目惚れとやらをしたことがあるんだ。そのときはね、どきどき、どきどき、心臓がおかしくなったんじゃないかと思ったよ。初めて会った人なのにね。周りの奴らが、綺麗だ何だと騒ぐようなタイプの子じゃなじゃなかったけどね、そのときの僕にはどうしようもなく素敵に思えたんだ。もう、頭の中は、四六時中彼女のことばかりさ。そわそわ、そわそわ、今彼女は何してるかな、次に彼女に会えるのはいつかな、彼女はこんなの好きかな、それともあんなのが好きかな、なんてね。今思うと、笑っちゃうよね。よく知りもしない相手なのにさ。
 けどね、電車を降りてからの僕は、それとはちょっと違ったんだよ。なんだかね、落ち着かないけど、どこか暖かいんだ。うまくいえないんだけどね。こんなとき、僕はやっぱり、ばかで、頭の悪い人間なんだと思ってしまうよ。自分の感情一つ、うまく説明できないんだからさ。だけど、僕は幸せだったんだ。マダムが僕に、ありがとうございました、っていってくれたおかげで、ぼくはとっても幸せな気持ちだったんだよ。理由は、うまく説明できないけれども。
 それでね、その日は一日、良い気持ちで過ごせたんだ。不思議なものだね。まったく知らない人にちょっと一言いわれただけなのにさ。食堂が混んでいても、学校の講義が長引いても、帰りの電車が事故で遅れていても、その日は一日、いい気持ちで過ごせたんだよ。
 でもね、次の日はよくなかった。帰りがいつもより遅くなったんだ。何故かっていうとね、その日の最後の授業の教授がね、僕の提出したレポートにケチをつけてきやがったんだ。それで、僕は残ってそのケチを聞かされたわけだよ。あいつはいつだってそうなんだ。隙あらば、生徒にねちねち文句をつけるんだ。まったく、嫌な奴だよ。僕は将来、絶対あんな大人にはなりたくないね。  で、僕はいつもより遅く家路についたわけだよ。僕はいつも、駅前の駐輪場に自転車をとめていてね、それで家まで帰るんだ。歩いて帰るにはちょっと大変な距離だし、かといってバスに乗るほどの距離でもないんでね。
 駐輪場にはね、僕の他にもたくさんの人が自転車をとめているわけだよ、そりゃあもう、自転車がぎっしりだよ、毎日ね。僕のいつもの帰宅時間だと、特にすごいよ。いつも、自転車を出すのに一苦労さ。ひどいときなんて、僕の自転車の車輪に、隣の自転車のペダルがつっこまれてからまっているからね。まあ、そんなの滅多にないけどね。 その日はいつもより遅かったせいかな、自転車の数も、自転車を出そうとする人も少なくてね、僕はいつになく楽に自転車を出すことができたんだよ。帰りは遅くはなったけど、これはいいことだったかな。
 それでね、僕がさっさと自転車にまたがって帰ろうとしたらさ、駐輪場から、がたがた音が聞こえるんだよ。それが聞きなれた音でね、要は、からまった自転車を引き離そうとする音なんだけどね。ああ、誰かが自転車を出すのに苦労してるんだな、と思ったんだよ。
 それでさ、本当になんの気はなしに、なんだけどね、ちょっとのぞいてやったんだよ。その、自転車を出している人をさ。そしたらさ、すごいんだよ。もう、かなりしっちゃかめっちゃかに自転車がからまっててさ、とても一人じゃどうにかできないだろうなってくらいだったよ。実際、その人はずい分頑張ってたんだけどさ、中年の、サラリーマンだったんだけどね、もう、全然ほどけていないんだよね。見てられなかったよ。
 これが自分でも不思議なんだけどさ、気がついたらさ、手伝っていたんだよ、そのサラリーマンをさ。なんでだろうね。さっきもいったけど、僕もいつも、自転車を出すのには苦労しているからね、動機なんて、そんなところかもしれない。いつもの自分を見ているような気がしたのかもな。
 僕がちょっと手を出したら、わりとすぐに自転車は取り出せてね、なにせ、僕は毎日のように自転車出しに苦心しているからね、慣れていたんだね。さてこれで僕もサラリーマンも帰れるなとなったわけだよ。僕はさっさと帰ろうとしたよ。そこにいる理由は、もうないわけだしね。
 そしたらさ、サラリーマンが僕を見ていうんだよ。すいませんでした、って。申し訳ないっていうより、手伝わせた自分を恥ずかしいっていうようにさ。背中を丸めてね。僕は、はあ、いえ、とかなんとか適当にいってさ、さっさと自分の自転車に乗って帰ったんだけどね。なんだかね、あんまりいい気分じゃなかったね。
 自転車をこぎながら、僕は一度しか会っていない、あのマダムのことを思い出していたよ。あのときはいい気分だったな、ってね。何が違ったんだろうな。自分でいうのもなんだけど、僕はあのマダムにも、サラリーマンにも親切にしたわけだよな。なのに、一方ではいい気分になって、一方ではなんだか嫌な感じがした。どうしてだろうね。
 で、自分が誰か見知らぬ人に親切にされたとき、どうしてるかなって思ったんだ。たとえば、席をゆずってもらったとき、落し物を拾ってもらったとき、道を教えてもらったとき。僕はどうしてるかなって考えたら、その人たちに、きっとこういっていたと思うんだ、すいません、って。
 ああ、これかなって思ったよ。みんな、きっとこういうときは、すいません、っていっちゃうんだ。迷惑かけてすいません、お手をわずらわせてすいません、ってね。でもね、あのマダムは違ったんだよ。親切にしてくれてありがとう、気にかけてくれてありがとう、っていってくれたんだ。だからね、僕は一日幸せだったんだ。僕の親切を受け止めて、認めてくれたわけだからね。
 僕はね、電車に乗ると、きょろきょろと乗客を見回してしまうんだよ。なんでかっていうとね、またあのマダムが乗っていやしないかと思うからなんだよ。あの素敵なマダムがさ。僕は彼女にこういいたいんだよ、こちらこそ、感謝の心をありがとう、ってね。



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