エキストラ


 あたしは昔から、不思議に思っていた。
「さて、他に意見のある人は……」
「は……」
「はい!」
「じゃあ、○○くん」
「はい。僕が思うに……」
 ○○くんが意見を述べ始めると、みんなは、一瞬ちらりとあたしを見てから、○○くんの話に聞き入った。
 あたしは、中途半端に上げたままだった手をそっと降ろすと、顔を伏せて、誰も視界に入らないようにした。
 いつもこうだ。
 あたしが何か言おうとすると、必ず誰かが先に話し始めてしまう。
 そして、あたしの開きかけた口は、言葉を発することなく閉じざるを得なくなってしまうのだ。
 他の人は、こんなことないのに。
 誰かと言葉がかぶることなく、綺麗にかみ合って話をしているのに。
 あたしはどうしても、こうなってしまう。
 そして、みんなに変な視線を向けられるのだ。
 無理やり自分の言いたいことを言ってみたこともあった。
 でも、駄目だった。
 あたしは頑張って話しているのに。
 君の話は後で聞くから。
 それ、今言うことじゃないよね?
 順番は守れよ。
 急ぎの話なのかな?
 それはさっき××さんが言ったことと同じだよね?
 うん、うん、わかった。で、他に意見のある人は?
 などなど。
 あたしの言葉は、いつも終わりを迎えることなく、他の誰かの言葉によって、流されていってしまう。
 どうしてだろう。
 言葉だけじゃない。
 道を歩いていてもそうだ。
 前から人が歩いてくる。
 あたしはそれを避けようとする。
 右に避ける。
 相手も右に動く。
 そしてそのままぶつかる。
 相手は、一瞬よろめきながらも、そのまま歩いていってしまう。
 これなんか、まだいい方だ。
 あたしが避けても、結局相手も動いてぶつかってしまうだろうと思って、避けないでいたことがあった。
 その時は、見事に相手に激突した。
 相手は、あたしが避けようとしなかったからと舌打ちをする。
 どうしてだろう。
 あたしは、ちゃんと考えて避けなかっただけだというのに。
 どうして他の人は、道を歩いていても、あんなにすんなりと、ぶつかることなく歩いていけるのだろう。
 あたしはぶつかって痛む肩をおさえ、いつも呆然としていた。
 あたしは、公園の端にあるベンチに腰を下ろして、辺りを見回した。
 公園内のどこからも、不協和音は聞こえてこない。
 誰もが誰かとかみ合って、ぶつかることなく、かぶることなく、言葉のキャッチボールを続けている。
 あたしと違って。
 ぽーん、ころころころ……。
 不意に、あたしの足元に、一つの野球ボールが転がってきた。
「すいませーん。それ、こっちに投げてもらえますかー?」
「あ、はい……」
 あたしは、持ち主に向かって、野球ボールを投げつける。
「あ……!」
 ボールは、ゆるやかな弧を描いて飛んでいく。
 持ち主を飛び越え、公園の反対の端まで。
 一瞬、天を仰いだ後、持ち主は慌ててボールを追って駆けて行った。
 向こう端にいた学生が、ボールを拾って持ち主に向かって投げたのが見えた。
 ボールは、柔らかな弧を描き、今度は持ち主の手におさまった。
 あたしは恥ずかしくなって顔をそらした。
 ベンチの隣の砂場では、子どもが二人、おままごとをやっていた。
 男の子と女の子で、パパとママの役だ。
 パパが仕事から帰って来て、ママがそれを出迎えるシーンだった。
 大人になったら、嫌でも働きに出たり、家事をしたりしなければいけないのに。
 どうしてわざわざ、子どものうちに、その真似ごとをするのだろう。
 あたしは悲しくなった。
 女の子が一人、砂場に駆けてきて、自分も仲間に入れてくれと言った。
 三人は、新しい女の子にはなんの役がいいかと話し合いを始めた。
 元々いた女の子は、子どもの役をやってもらえばいいと言った。
 新しい女の子は、自分がママ役をやりたいと主張した。
 男の子は、今度はヒーローごっこがいいと提案した。
 三人の言い争いは続いて、折り合いはつきそうになかった。
 唐突に。
 あたしは気づいた。
 そうだ、そうだったのだ。
 この世界は、すべてごっこ遊びで。
 演劇で。ドラマで。嘘っこで。
 あたしは登場人物なんかじゃなくて。
 舞台の一部で。背景の一部で。
 ただのエキストラで。
 だからあたしにセリフなんかなくて。
 あたしが発言することで、このお芝居は壊れていって。
 だからあたしが発言するたびに、シナリオを乱すあたしをみんながにらんでいたのだ。
 だってほら。
 みんな、いっつも、台本を読んでいるじゃない。
 どうして今まで、気がつかなかったのだろう。
 ベンチに座るカップルたちも。
 犬の散歩をしているおじいさんも。
 携帯電話で忙しく話すサラリーマンも。
 遊びに興じる子どもたちも。
 みんなみんな、台本片手に喋っているじゃないの。
 それは、あるいはノートサイズだったり、メモ帳ほどの大きさだったり、緑だったり赤だったり黄色だったり。
 人によって色や形は違うけれど、誰もが台本を持っているじゃないの。
 あたし以外の、誰もが。
 あたし以外の誰もが、台本を持ち、与えられたセリフを読み、このお芝居を滞りなく進めているじゃないの。
 だけどあたしはエキストラだから。
 セリフなんかなくて。
 したがって、台本なんか必要なくて。
 だけど。
「あたしは、あたしは……!」
 気がつくと。
 あたしは、あたしのすぐ前を、仲良くおしゃべりをしながら通り過ぎた女の子の群れに跳びかかっていた。
 正確には、その子たちの持つ台本に向かって。
 きゃっ、といって、逃げ出す女の子達。
 あたしの手は、虚しく宙をつかんだ。
 通行人たちが、いぶかしげにあたしを見やる。
 だけどあたしは止まらない。
 すぐに今度は、何か事件でもあったのかと、こちらを見ているカップルの片割れに向かって跳ぶ。
 カップルの、女の方の握っている台本へとあたしの手が届く。
 やった! これでこの台本はあたしのものだ。
 あたしの心は躍った。
 しかし、それもつかの間。
 あたしが触れた瞬間、その淡いピンクの台本は、消えてなくなった。
 何が起こったのかわからず呆然とするあたし。
 あたしに台本を奪われた女も、目をぱちくりとしている。
 こうしちゃいられない、早く次の台本を探さなければ。
 あたしは急いで、今度は男の方の台本をひったくった。
 けれどまた同じ結末。
 男の持っていた薄緑色の台本は、あたしの手が触れた途端、どこへともなく消えうせた。
 そんなばかな……!
 あたしは必死になって、そこら中の人が持っている台本という台本を奪いまわった。
 けれど、いずれも同じだった。
 どの台本も、あたしの手が伸びてくると、あっさりと、その姿は宙に溶けてしまった。
「どうしてよ……!」
 言葉は、あたしの口から勝手に出てきていた。
「どうしてあたしには台本をくれないのよ!」
 止まらない。言葉が、あたしの口からあふれ出す。
「あたしにも台本をちょうだいよ!」
 叫んであたしは、その場に崩れ落ちた。
 怯えた顔であたしをとりまく人々。
 その中に、あたしは発見した。
 ははっ。
 なんだ、そうか、そうだったんだ……。
 あたしは地面に崩れ落ちたまま、笑みを浮かべていた。
 そうか、あたしのこの行動自体が、台本のとおりだったのだ。
 あたしが何か失敗して、周りから怖い目で見られるのも。
 あたしがうまく喋れなくて、みんなを困らせているのも。
 あたしが一人だけ台本を持たず、右往左往しているのも。
 すべて、あらかじめ決められていた、筋書き通りだったのだ。
 だって、ほら。
 あたしはゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。
 あたしの、あたしだけの台本に向かって。
 さっき、あたしは発見していたのだ。
 あたしを不審な目でとり囲む人々の、その奥に。
 あたしだけの台本が置いてあったのを。
 それは少し離れたところにあったのだけれど、不思議とあたしには、閉じた表紙に書かれた文字がはっきりと読めた。
 そこには、あたしの名前が書いてあったのだ。
 だから、あれはあたしの台本。
 あたしだけの、あたしだけのための台本。
 あたしはふらふらと、その台本へと歩み寄っていった。
 風で台本がめくれる。
 まだまだ距離はあるのに、そこに書かれたセリフもト書きも、あたしにははっきりと読める。
 ちょうど、ページは今のこのシーンだ。
 あたしはさっきのセリフを叫び、台本に気づいてふらふらと歩き始める。
 それを取り囲む通行人役のエキストラたち。
 あたしはその中を、主演女優として堂々と、しかし、かろやかに進む。
 誰も、何も言わない。
 だってそうでしょ。
 彼らはエキストラなんだもの。
 エキストラに、無駄なセリフはいらない。
 かんかんかん、という音が響き渡った。
 きゃー、っと、どこかで悲鳴があがった。
 だけどあたしは動じない。
 だって、今の悲鳴も、音も、台本のとおり。
 あたしの役は、ひたすらあたしの台本の元まで歩くこと。
 一歩、また一歩と、あたしは大地を踏みしめる。
 あたしの目に映る、あたしだけの台本のト書きには、こう書かれている。
『騒然とする人々の間を、台本に向かって、ひとり静かに歩き続ける。
 何が起ころうとも』
 そう、だからあたしは、何が起ころうとも歩を止めない。
 さあ、あと一歩で、あたしだけの台本にまで手が届く。
 風が、あたしの台本をまためくった。
 そこには、こうト書きされていた。
『踏切が閉まり、台本に触れる直前、電車がやってくる』
 不意に強風が起こり、陽が翳った。
 あたしの手があたしだけの台本に触れる寸前、何かがあたしにぶつかった。




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photo by 空に咲く花