駐輪場


 夕方五時過ぎ。下校途中の高校生たちに交じって駐輪場に入ると、俺の自転車を触っているおっさんがいた。
「おいおっさん、俺の自転車に何か用かよ」
「おお、悪い悪い。自転車の整理をしていたら、二重ロックをしていないものがあったから、危ないなあと思ってね」
六十代くらいだろうか。額の真ん中にでっかいホクロがあり、俺が小学生くらいなら、絶対押しつぶしてしまっているだろう。青いキャップを被り、やはり青のジャンパー、左腕には『防犯』とでっかく書かれた緑の腕章をつけている。この駐輪場の整理や見回りをしている、雇われ人のようだ。
「そりゃあどうも」
 俺はおっさんを軽く押しのけると、自転車に鍵をさし、止めていた場所から引き出した。
「毎日これくらいの時間に帰るのかい?」
「いや、今日はたまたまっすよ。大学の講義が一個、急に休講になって」
「ということは、普段はもっと遅いのか」
 優しくも質問に答えてやった俺の言葉に、おっさんは何やら考えるような表情になった。
「駐輪場に止めているからってね、安心してはいけないよ。今は本当に危ないんだよ。そんな程度の自転車の鍵なんて、慣れた奴にかかれば簡単に開けられるんだ。帰りが遅いのなら、なおさら危ない。ホームセンターに行けば安いチェーンもいっぱい売ってるからさ。悪いこと言わないから、二重ロックしなさい」
「はいはい。ご忠告ありがとうございます。じゃ」
 おっさんのありがたいお話を適当に聞き流すと、俺は自転車にまたがり、颯爽と漕ぎ出した。
 次の日も、その次の日も、俺はその駐輪場に自転車を止めた。もちろん、二重ロックなどという面倒なことはしない。休講も急用もなく、予定通りに帰路につく俺が駐輪場に着く頃には辺りは暗く、あのおっさんの姿はなかった。
 おっさんと話してちょうど一週間。日暮れ後の駐輪場で、俺は自分の自転車を見つけることができなかった。指定の駐輪場所が個別に決められていないこの駐輪場で、俺はいつも大体同じ場所に自転車を止めている。今朝もそこに止めて、大学の最寄り駅までは電車に乗った。時々、整理の人に勝手に移動させられることはあるが、それは元の場所から見える範囲の動きであり、すぐに見つけられる。
 だが、今日はそうではなかった。自転車を止めていた場所の前後左右の列、どころか駐輪場中を探してみたが、どこにもその姿はなかった。
 ――盗まれたのだ。
 一週間前に聞き流した、おっさんの話が思い出された。駐輪場の端では『自転車泥にご注意! 二重ロックをしよう!』と書かれた薄緑色の旗が、不気味に風になびいている。
 しかし、後悔しても遅い。俺はとぼとぼと駐輪場を出ると、自宅まで四十分の道程を歩き始めた。何事もなく、ごく当たり前に自転車に乗り走っていく人たちが恨めしい。今頃俺の自転車は、どんな目にあっているのやら。
 歩き始めてすぐ、ふと気づき、俺は回れ右をした。駐輪場は駅と俺の自宅との間にある。つまり今は、駅へと向かう形だ。駅前には交番がある。俺は生まれて初めて、おまわりさんと話すべく、交番へと駆け込んだ。
「すみません、俺の自転車が盗まれたんですけど、どうすればいいんすか!?」
 受付カウンターのようなところにいた髭面のおまわりに、俺は急いで言った。交番の奥にはもう一部屋あるようで、テレビの音が流れてきている。
「自転車? 盗られちゃったの? 可哀そうにねえ」
「そうなんすよ! そこの、すぐ近くの駐輪場に毎日止めてたんすけど、今日いきなり!」
「ああ、あの駅裏の第二駐輪場ね。じゃあ、君で七件目だわ、今日のそこの被害者」
「マジすか!?」
 くそぉ、ちゃんと駐輪場のおっさんの注意聞いて、二重ロックしてりゃあ……。
「どうもねー、犯人グループの一人が、何週間か前から、あそこの管理人のふりして駐輪場内を物色してたらしいんだよね。簡単に鍵を壊せる自転車はないかなって。『防犯』なんて腕章つけてさ。本当の管理人は、朝八時から午後三時までしかいないんだけど、そんなのほとんどの利用者は知らないから、腕章見て、お仕事お疲れ様ですー、なんて言っちゃっててさ。駐輪場の整理なんて、誰が雇われてるかなんてみんな気にしないじゃん。そこにつけこんだみたいだね。君も見たことない? 午後三時以降に腕章つけた人。見てたとしたら、それ多分犯人だと思うから、何か覚えてることあったら教えてよ」
 俺は頭の中で、例のおっさんの額のホクロを、思い切り押しつぶしてやった。



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photo by M+J