ある日


 西向きに窓のある部屋。玄関があり、他の部屋への廊下はない。畳敷き。窓の隣に、小さな備え付けの両開き扉の戸棚。部屋の中にあるのはダンボールの机、たたまれた布団、積まれた衣類。それと、壁にたてかけられた携帯用コンロに小さな水道とコップ。

 ダンボール机の前に、正座している柿部。質素な服を着ている。机の上には数枚の原稿用紙とペン。腕を組みながら考え込んでいる。

 玄関の前に立ち、手書きの「柿部」という文字を指さし確認する花島。流行の服で身を固めている。前から見ても、後ろから見ても隙はない。ドアチャイムもない玄関を、ノックもせずにいきなり開ける。

花島(はなしま)
 (玄関から入ってきて、靴も脱がずに上がり口に座り込み)よう、とうとう学校辞めたらしいな。
柿部(かきべ)
 (突然の花島の来訪に苦い顔をしつつも、)ああ、あんなところ、もっと早々に辞めるべきだった。そもそも、あんなところに入ったのが間違いだったのだ。
花島
 まあ、過ぎたるは考え及ばざるがごとし、辞めた今、そんなことを言っても仕方ないだろう。何か違う気もするが……。ところで、今は何をやっているんだ。
柿部
 うん、小説家にでもなろうと思ってな、今、ちょうど書いているところだ。
花島
 どれどれ……(ダンボール机の上を覗き込む)。……なんだ、何も書かれていないじゃないか。
柿部
 まだ頭の中で書く段階なのだ。そこでまとまってから、紙に写す。それが正しい小説の書き方の手順だ。
花島
 そういうものなのかね。で、どうなんだい、そろそろ紙に書けそうなのかい。
柿部
 大体の筋は決まっている。あと少しといったところだな……。そうだ、折角来たんだ、花島君、何か話でもしようではないか。
花島
 それは、僕は君と話をするつもりで来たからまったく構わないが、君はそれでいいのかい。小説を書くんじゃなかったのか。
柿部
 なに、わざわざ訪ねてくれた君を放っておくわけにはいかない。さあ、話をしようではないか。
花島
 しかし、話をしようといって話し始めるのも変な話だな……。おかしい。大体、君は、いきなり家に来た人と話をするような性格じゃなかったはずだ。さては気でも狂ったか、それとも狸が化けているのか……。
柿部
 狸だと。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。それでは話にならない。
花島
 話にならないといわれても、これで話ができたじゃないか。どうだ、ここから話を広げて、学校をやめ、小説家を志すに至った君の心境の変化なんかを……。
柿部
 ふむ、なるほど、自分自身のことを話にするわけか。古今東西、使い古された手だな。なんの面白味もない。
花島
 使い古されたとはなんだ。今ここで君と僕が話すのに、これほどいい話はないだろう。
柿部
 やはり、君みたいな人間とは話しても無駄のようだ。さっさと帰ってくれ。
花島
 話せと言ったり帰れと言ったり、失礼な奴だな。
柿部
 失礼で結構。君などをあてにしたのが、そもそもの間違いだった。
花島
 あてってなんだよ。
柿部
 君には関係のない話だ。帰りたまえ。(手でしっしっと追い払う仕草をする)
花島
 ははあ……さては、僕との話から、何か小説のネタを得る気でいたな。
柿部
 (どきっとした顔で)そんなわけないだろう。僕の書く話はもう決まっている。
花島
 ゼヒ知りたいものだね、どんな話か。
柿部
 言っただろう、君には関係のない話だと。
花島
 話、話と、どうも変な会話だなあ。まあ、この際君の小説の筋の決まっているいないはどうでもいい。もう少し話をしようじゃないか。
柿部
 君がそこまで言うのならば仕方がない。しばらく我慢してあげよう。何か面白い話をしたならば、紙に書きとめてやってもいいしな。
花島
 学校を辞めても、その性格はあまり変わっていないみたいだな。で、録音機かなんかはないのかい、ここには。
柿部
 そんなものはない。
花島
 ないのかい。会話を書き留めるのはなかなか難しい。僕も一度、授業でやらされたことがあるけどねえ。もし今後も会話から何か話を得ようとするなら、録音機にでも記録しておくことを勧めるよ。
柿部
 そんなものはいらん。
花島
 便利だと思うがねえ……。そういえば、この部屋はずい分と寂しいな。録音機どころか、テレビもラジオも、冷蔵庫すらもないじゃないか。
柿部
 そんなものもいらん。
花島
 ははあ……さては、買う金がないんだな。
柿部
 失礼なことを言うな。金ならちゃんとある。……必要なものを買う金はな。
花島
 というと、君は、テレビやラジオや冷蔵庫は、必要のないものだと言いたいんだな。
柿部
 ああ、そんなもの、ただの文明かぶれのガラクタだ。僕は、この部屋にあるものだけで十分に生きていける。
花島
 どこの頑固ジジイだよ……。まったく、どうりで客にお茶のひとつも出さないわけだ。いや、正確には出せないのか。
柿部
 招いてもいない奴は客とは言わない。
花島
 招かれざる客、という言い方があるだろう。呼ばれもしなくても、来たからには客さ。
柿部
 どうも腑に落ちない……。
花島
 しかし、客にお茶も出せない状態で、君はどうやって生活しているんだい。
柿部
 必要な分だけ買ってきて、自分で調理して食べる。それだけのことだ。昔の人間はみなそうやっていた。
花島
 この小さな水道と、そこの古臭い携帯用コンロでかい?
柿部
 そうだ。僕は無駄は嫌いだ。
花島
 食器やなんかは?
柿部
 (窓の隣の戸棚を指さして)あの中に、必要なものはすべて入っている。

 花島、靴を脱がず、膝歩きをして戸棚に近寄り、開ける。中には、鍋や包丁、簡単な調味料、食器の代わりになりそうな板のようなものが無造作に並べられている。

柿部
 おい、勝手に開けるんじゃない。
花島
 (小さな声で、自分に言い聞かせるように)僕はよく色々な人の家を訪ねているが、君の家ほど変わった家にはお目にかかったことがない。うん、これは十分面白い話だよ。
柿部
 何をぶつぶつ言っている。いいから早く戸を閉めろ。それに、人の家にあがるときはきちんと靴を脱げ。
花島
 (またも膝歩きで玄関に戻り)この際、君の私生活をそのまま小説にしてみたらどうだい。これはなかなか面白いものになると思うよ、僕が保障する。
柿部
 また自分自身の話か。どうも君はその話ばかりしたがる。それは多くの人が使っていて、もう古い手なのだよ。
花島
 いや、そんなことはない。考えてもみろ。多くの人が使っているということは、それだけ多くの人が読んでいるということだ。多くの人が読んでいるということは、それだけ多くの人が望んでいるものだということだ。うん、やはり君は自分を題材にするべきだと思うね。
柿部
 ふむ、多くの人が望んでいる、か……。なるほど、一理ありだな。
花島
 その気になったようだな。
柿部
 よし、手始めに、今のこの会話を書くことにするか。
花島
 善は急げというわけか。しかし、この会話をいきなり書くのは、ちょっと芸がないんじゃないかな……。
柿部
 (まずいかなと顔をゆがめながらも)いや、これはほんの肩ならしだ。僕が、そんなつまらないことをするわけないではないか。
花島
 (柿部の顔を見て)どうも、君と話していると、何かを思い出すなあ。
柿部
 僕が何かに似ているとでも言いたいのか。とんでもない、きっとそいつの方が僕の真似をしているのだろう。一体、どこのどいつのことだ。
花島
 そうせかされると、思い出すものも思い出せない。あれは、誰だったかな……そうだ、「苦沙弥先生」だ!
柿部
 くしゃみせんせい……?

 柿部、怪訝そうに眉をしかめる。反対に、花島は嬉しそうにはしゃぎ、ひとりで盛り上がっている。

花島
 そうだそうだ、この変に頑固なところやずれたところ、そっくりじゃないか。とすると、さしずめ僕は、迷亭先生といったところか。
柿部
 そんな先生、いただろうか……。
花島
 (柿部をまじまじと見て、ゆっくりと)「苦沙弥先生」。
柿部
 僕が学校を辞めてから入った先生かい。
花島
 ……「我輩は猫である」。
柿部
 夏目漱石か? なんだ、文学の先生なのかい。
花島
 ……まさかと思うが、読んだことがないのかい?
柿部
 何をだ?
花島
 「我輩は猫である」だよ! 君は、小説家を志しているくせに、これを読んだことがないのかい?
柿部
 くせにとはなんだ。

 花島、思いつくままに、しばらく名高い文学作品の名をあげる。柿部はそのどれにも、読んでいないと首を振る。

花島
 驚きだな、どれも読んでいないのかい?
柿部
 それを読まなけりゃ小説家になれないというのか。
花島
 そういうわけではないが……。
柿部
 なら、何の問題もないではないか。大体、僕は、他人の書いた小説などに興味はないのだ。読んだところで、そこには他人の書いたものがあるだけで、僕が書くべきものはないではないか。
花島
 いや、問題はあるだろう。多くの本を読んでこそ、豊かな文を書けるんじゃないのか。
柿部
 そんなことはない。他人の文章ばかり読んでいたって、猿真似がうまくなるだけだ。僕は、僕だけの話を書きたいのだ。それを、くしゃみなどというわけのわからないものに似ているなどと言われるとは、心外だ。(花島から顔を背けて)この話はなかったことにする。不愉快だ。
花島
 (手を使ってなだめる仕草をしながら)まあ、落ち着け。例えを出したのは悪かったかもしれないが、夏目漱石は素晴らしい作家だ。これに似ているというのは、むしろ名誉じゃないか。
柿部
 何が名誉だ。僕は、盗作の被害にあうものは、大抵が優れた作品であると思っている。良いものでなければ、盗むわけがないからな。だが、自分がその犯人とされるのはごめんだ。被害者なら大歓迎だがな。
花島
 なるほど、そういう考え方もあるな。
柿部
 大体、君は例えがヘタなのだよ。例えというものは、読んだ人見た人聞いた人、すべてがわかるものでなければいけない。それをなんだ、猫だくしゃみだと、少しは読んでいない人のことを考えたらどうだ。
花島
 わかった、僕が全面的に悪かった。さっきの、似ている云々の話は、すべてなかったことにしようじゃないか。
柿部
 もういい。君と話すのはうんざりだ。やはり、君のようなのをあてにするんじゃなかった。さあ、今度こそ帰ってくれ。(立ち上がる)
花島
 まあ待て、冷静に話そうじゃないか。さっきまでの気持ちに戻って。

 花島、なおも柿部を説得しようとするも、柿部に無理やり立たされ、表に押し出される。戸が閉められ、しばらく二人で開ける開けないの力比べをするが、やがて花島があきらめ、とぼとぼと帰っていく。



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photo by 空に咲く花