鳥


「君はいいね。ずっと同じところにいられるのだから」
 ある秋の夕暮れ、窓枠にとまったまま若い鳥が言った。 「ぼくはこれから冬が来る前に、慣れ親しんだこの土地を離れて、南の国へ行かなくてはいけないんだよ。」
 鳥は悲しそうにうつむいた。今年生まれた鳥にとって、これが初めての渡り。不安で不安でしようがない。
「ぼくも君と同じイスに生まれたかったよ」
 これを聞いて、部屋の中の格別日当たりのいい場所におかれた木製のイスは、とんでもないとばかりに高い声をあげた。
「何を言うんだ。お前はおれのことを羨ましがっているけどな、おれにもお前のことが羨ましくて仕方がないときがあるんだぞ」
「いいよ、無理になぐさめてくれなくたって」
「無理なんてしていない。ずっとこの部屋にいるより、どこにでも行けるほうが断然いいじゃないか」
 イスは興奮した口調で言った。しかし、鳥の顔は相変わらず暗い。
「どこにでも行けるというのは、むしろどこかへ行かなくてはいけないような気がするんだ。ひとつのところに留まっていてはいけないような……ぼくは恐いんだよ。『どこか』へ行くことで、ぼく自身が変わってしまう気がして。『どこか』へ行ってしまったら、今のぼくが消えてしまいそうなんだよ」
 鳥は顔を両の羽で覆うようにして泣きだした。しばらくの間、イスは鳥を困ったように見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「おれだってな、この部屋で生まれたわけじゃないんだ。それどころか、最初はイスですらなかったんだ」
 イスの言葉を聞いて、鳥は両羽顔からを少しはなし、涙でうるんだ目でイスをまじまじと見た。羽は涙で濡れている。
「どこからどう見たって、君はイスにしか見えないよ」
「そりゃあ確かに今はイスだ。それ以外のものに見えたらおかしいさ。でもな、おれは本当は木としてこの世に生まれたんだ」
 昔のことを懐かしむように、イスは語り始めた。
「もう何年前のことになるのかなんていちいち憶えちゃいないが、おれはどこかの森に木として生まれた。虫に葉を食われたこともあった。日照りで体がからからになったこともあったし、大雨で土から根っこをむきだしにされたこともあった。でも悪いことばかりだったわけじゃなかった。日の光をうけ、雨水をあびて生きていた。おれはずっとここで生きていくんだと信じて疑わなかった」
 イスはここで、一旦言葉を切った。鳥はもうすっかり泣きやんで、イスの話に耳を傾けている。
「だが、ある日森に人間たちがやってきて、おれとおれの友達を切り倒しちまったんだ。切り倒されたときぼんやりと思ったよ、おれはもう死ぬんだとね。だから、気がついて、自分がイスになっていたときは驚いたね。おれはまだ生きているのか? って。それからは、ずっとこの部屋でイスとして生きているよ」
 イスの話を聞き終えた鳥は言った。
「やっぱりそうだ、場所が変わると『自分』というのは変わっちゃうんだ。だって君は外では『木』だったのに、この部屋では『イス』になってしまったんだろう」
「それは違う。外見が変わっても、心が変わらないかぎり、おれがおれであることに変わりはないんだ。外で生きていたおれもいるし、この部屋で生きているおれもいる」
「なんだか難しくて、よくわからないよ」
「ああ、実はおれもよくわからない」
 イスの無責任な言い様に、鳥は顔をしかめた。
「とにかく、たとえ変わってしまったように見えても、心の一番深い部分というのはそうそう簡単に変わるもんじゃない。それに、お前は変わることを恐れているが、必ずしも悪い変化とはかぎらないんだぞ。むしろいいことのほうが多いだろう。――現に、おれはイスになってここへ来てよかったと思っている」
「どうして?」
「それは……」
 イスはしばらく考え、そして言った。
「お前が無事に南から帰ってきたら教えてやるよ」


 数日後、鳥は群れの仲間たちとともに南へと飛びたっていった。


 時は流れて。
 ある夏の明け方。
 一羽の鳥が、格別日当たりのいい場所に一脚の木製のイスがおかれている部屋の窓わくにとまった。
 真横からさす朝日が、鳥の影を部屋の中に細長くうつしだしていた。


「ただいま」
「おかえり」



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photo by M+J